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京都通へのトビラ

京都鴨川納涼床協同組合理事長 久保明彦さん

「自然の中でくつろぐ喜びは、納涼床ならでは」 京都鴨川納涼床協同組合理事長 久保明彦さん

京都の夏の風物詩、といえば鴨川納涼床(ゆか)。北は二条通から南は五条通までの鴨川右岸(西側)に並びます。5月1日から31日までは「皐月の床」、9月1日から30日までは「あと涼みの床」と呼ばれ、この期間は夜に加えてお昼の床も出されます。6月1日から8月31日までは「本床(ほんゆか)」と呼ばれる夜の納涼床で賑わいます。その数95軒。昨今では老舗料亭からイタリアンやフレンチ、エスニックのお店など多様化していて、若い方でも入りやすいお店が増えました。川床は京都の伝統文化。その伝統を守る苦労や工夫を、京都鴨川納涼床協同組合の理事長で、料亭「幾松」専務の久保明彦さんにお聞きしました。


鴨川納涼床って、いつの時代からあったのですか。

「四条河原夕涼其一」
(『江戸時代の京都遊覧 彩色みやこ名勝図絵』白幡洋三郎彩色・著)

鴨川は白河法皇を「天下三不如意」として嘆かせました。すなわち「賀茂川の水、双六の賽、(比叡山の)山法師」です。戦乱が収まり、平和な時代になると寛文9年(1669)には治水のために寛文新堤が整備され、四条河原には芝居小屋もでき、祇園祭の時は神輿洗いの見学で大変賑わったといいます。当時の床は浅瀬に床几を置いたもので、「河原の涼み」と呼ばれていました。夏の宵、一面のろうそくの灯りに揺れる河原は大変情趣豊かな風景だったと思われます。これが納涼床の原点です。


今のような高床形式になったのはいつからですか。

「三条大橋下の床」
(国際日本文化研究センター提供)

明治時代の初めはまだ流れの上に床几を置いたものが主流でした。明治後期になって高床形式の納涼床ができ始めました。当時は川の両岸にありましたが、大正4年(1915)の京阪電車鴨東線の三条駅までの延伸により左岸(東側)の床が姿を消します。夏だけでなく半永久的に出しているところもありました。治水工事により鴨川の流れが早くなった大正時代には床几形式の床が禁止されました。この時の工事により禊川ができ、高床式の床を右岸の禊川の上に出すようになりましたが、屋根を付けたり、鉄柱を立てたりする店があとを絶たなかったといいます。昭和4年に半永久的な床を出すことが禁じられます。


今のようにきれいな景観ではなかったのですね。

昭和9年の室戸台風、昭和10年の集中豪雨によって納涼床はすべて流され、その後ほぼ現在の姿になるのですが、第二次大戦の灯火管制により納涼床の灯は消えます。戦後の復興の中で風致上好ましくない床も出てきたため、昭和26年に「納涼床許可基準」が景観上の基準として策定されます。鴨涯保勝会が「京都鴨川納涼床協同組合」となり、現在川床を出せるのは組合員のみです。平成20年には京都府鴨川条例が施行され、さらに厳しい川床の基準が設けられました。床の出ないときも、鴨川クリーンハイクに参加するなど鴨川の美化に取り組んでいます。


情緒ある納涼床も、厳しい統制があるからこそ美しい景観を保っているのですね。

そうですね。鴨川は「神宿る川」、都の東の守り神「青龍」として古代から崇められてきました。このことを頭のどこかに入れて、納涼床に来ていただくと景色もまた格別のものになると思います。沈む夕陽、黄昏時の情趣に浸り、あるいは昇る月を眺めながら自然の中でくつろぐ喜びは納涼床ならではです。床に来られたら、店の人とも、お隣の席の方とも笑顔を交わしていただきたい。全員が一体となって流れる時間を味わうのも床の醍醐味です。雨も自然の賜物。速やかに店内に入ってまた違った風情を楽しんでいただければ。


床は歌舞音曲が禁止と聞いています。

禁止です。自然の中で静かに会話を楽しんでいただきたいので。ただ、5月1日の昼床開きの時の長刀鉾のお囃子の稽古はじめだけは例外です。この時だけ、床の上で長刀鉾のお囃子が演奏されます。


Bar Atlantisのカクテル
940円〜

以前は床って高級イメージでしたが、最近はカジュアルな床も多くてうれしいです。

今は床を出しておられるカフェもあります。ですから、カフェで待ち合わせして、イタリアンを食べて、居酒屋へ行って、最後はショットバー、なんて床の使い方もできるのですよ。一口に「納涼床」といっても、静かな上木屋町から華やかな先斗町、歴史ある西石垣(さいせき)、落ち着いた下木屋町とエリアごとに個性も違います。ぜひ、全エリアを歩いてみてください。


幾松の京会席 14,000円〜

5月からのお昼の床も利用しやすくていいですね。

まずランチをしてみて、料理や雰囲気を確認してから次は本床で、など「お試し」できるのも好評です。行きたかった床が身近になります。


理事長のお店「幾松」は上木屋町にあるのですね。

ここは元々は材木問屋でした。高瀬川の水運があるので材木を伏見に運んでいました。それが長州藩控屋敷になり、木戸孝允(桂小五郎)と松子夫人(幾松)の住まいだったとも伝わっています。その後、吉富楼になり次に水炊きで有名な新三浦、そして昭和31年から幾松になりました。吉富楼の時代から「屋敷のしつらいをなるべく変えず、幾松さんがいた時の雰囲気を引き継ぐこと」というのが屋敷を引き継ぐ条件でした。代々守ってきたので、「幾松の部屋」には特に往時の面影が残っています。「幾松の部屋」は長州藩の尊皇攘夷派がたびたび謀議を重ねた部屋です。幾松はその当時は三本木の芸妓でした。この部屋は新選組など敵の来襲に備えて釣天井になっています。


この辺りは幕末の動乱の面影が濃く残っているようです。

高瀬川を使って脱藩してきた志士たちが上陸し、上木屋町に住みました。長州藩邸、土佐藩邸も木屋町にありましたからね。うちの前は佐久間象山や大村益次郎遭難の場所でもあり、近くには2人の遭難之碑が建っています。歴史好きにはたまらない場所ですね。納涼床を楽しんだ後は、そぞろ歩きをしながら歴史の浪漫にも思いを馳せてください。

掲載内容は2013年5月時点の情報です。