魅力再発見! 三条通散策イベントの様子をご報告

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当日レポート ~2017年9月10日実施~


2017年は、大政奉還から150年を迎える節目の年。全国各地で様々な催しが行われていますが、「そうだ 京都、行こう。」オリジナルイベントでは、幕末の激動ぶりや明治維新の名残、そして庶民の暮らしまでも感じることができる三条通を「らくたび・京都学講師」の安達さんのご案内で散策するイベントを行いました。驚きと発見の連続であった当日の様子をどうぞご覧ください。

ぎぼし

イベントは豊臣秀吉によって架けられ、江戸時代には五街道のひとつとされた東海道の終起点である三条大橋からスタート。普段は何気なく渡っていましたが、橋の欄干にある擬宝珠(ぎぼし)の中には、なんと、幕末の大事件である池田屋事件の際についたとされる刀傷が遺っているといいます。黒い「しみ」のようなものの中にある筋が刀傷ということ! 江戸時代の刀傷が現代まで遺っているなんて… と、会員の皆様も興味深くご覧になっていました。

野次喜多

三条大橋を西へ渡ると、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』に登場するおどけた姿の「弥次・喜多像」がお出迎え。今であれば東京から京都間は、新幹線に乗れば2時間20分弱ですが、江戸時代は、この500キロの道のりを踏破するのに半月ほどかかったそう。ちなみに、当時の飛脚は、右手と右脚、左手と左脚を同時に出す、“ナンバ走り”という独特な走り方によって、たった3~5日間で京都へ荷物を届けていたのだとか。驚異的な脚力の持ち主だったのですね。そして、この「弥次・喜多像」が立つ付近は、かつて「三条河原」と呼ばれ、石川五右衛門や石田三成などが処刑され首が晒された場所であるそう。「憩いの場となっている今の鴨川の雰囲気からは想像できない!」と驚かれる会員様もいらっしゃいました。

舟入

鴨川から西へ進み、繁華街近くまで来たところで、安達さんが「あちらの段差をご覧ください」と。言われてみると、確かに平坦な町並みの中に段差(坂)のようなものがありますが、いったい何なのでしょうか。実はこれ、街歩きの人気テレビ番組でも紹介されたそうですが、江戸時代、京都の中心部と伏水(伏見)を結ぶために角倉了以(すみのくらりょうい)が開削した人工の運河“高瀬川”の船着き場、「舟入」(ふないり)の名残だそう。京都に精通した「らくたび・京都学講師」のご案内だからこその発見に驚くばかりです。

池田屋騒動址

続いては、幕末史の中でも特に有名な事件の舞台となった「池田屋跡」へ。現在その場所には、騒動があったことを物語る石碑とその名も「池田屋」という居酒屋があります。いわゆる「階段落ち」を再現した大階段や「誠」の法被を纏った店員さんなど、まさに池田屋と新撰組をテーマにしたものになっているそう。新撰組ファンならずともお店の中が気になりますね。

レトロ建築1
レトロ建築2

河原町通を渡って寺町通へ。この辺りから新町通までの間は、ここまでの町並みの風景とは一変してレトロな洋風建築が立ち並びます。実はこの辺り、明治時代末に烏丸通や四条通が拡幅されるまでは、商業の中心エリアだったそうで、その名残ともいうべき光景を目にすることができます。なかでも注目したいのが、家邊徳(やべとく)時計店(写真上・左)。明治23年(1890)に完成したドイツ産の赤レンガが特徴的な建物ですが、内部には、木製の螺旋階段や金庫などがあり、現在は洋服屋として使用されています。この他にも、国の重要文化財で、かつては旧日本銀行京都支店であった“京都文化博物館別館”やファッションビルとして生まれ変わった“SACRAビル”などへ。京都といえば、いかにも日本的なお寺や町家というイメージが強いですが、京の町に生き続ける近代洋風建築を前に、京都の奥深さを改めて感じることができました。

了頓図子

さて、皆さんは図子(ずし)という言葉を聞いたことがありますか? 家と家の間に延び、通り抜けができる細い道のことを「図子」といい、京都の街角では今も多く存在しています。平安京の街の区画が正方形であったのを、秀吉の時代に、通りに面する店舗などを増やすため、新たに道を通したことからできたそう。三条通から六角通へ抜けるこちらの小道は「了頓(りょうとん)図子」と呼ばれていますが、かつてここは、桃山時代の茶人・廣野了頓の大きな屋敷があった場所。了頓が町民ために屋敷内を自由に通行させたことから、そのように名付けられたそうです。

三条会商店街
御供社

堀川通から千本通まで約800メートル続く「京都三条会商店街」をぶらり散策。昔ながらの商店のほか、町家を改装したカフェなども軒を連ねています。元マラソン選手でオリンピック金メダリストの野口みずきさんは、現役の時、雨の日にはアーケードになっているこの商店街の中を走って汗を流していたそう。そんな商店街の一角には、祇園祭に縁のある八坂神社又旅社(御供社・ごくうしゃ)があります。今はここより北にある神泉苑の南端が、かつてはこの御供社あたりまで広がっており、祇園御霊会が行われたことから、現在でも祇園祭の後祭の7月24日には、八坂神社の神輿三基が渡御され、神事がここで執り行われているそう。この日ばかりは、近所の方々も「祇園さん」から神輿が来るということで大騒ぎになるのだとか。豪華絢爛な山鉾巡行とは異なる、勇壮で活気ある神輿渡御を間近でご覧いただける穴場スポットかもしれません。

善想寺

京都三条会商店街を少し南へ下がり、平安時代には上皇の御所であった四条後院皇宮の跡地で、天正10年(1582)10月、応仁の乱により長らく荒廃していた帝都復興を目指す豊臣秀吉の命により再建された善想寺へ。通常非公開の本堂では、青木ご住職に、お寺の歴史と最澄によって刻まれた「泥足地蔵」、「汗出し地蔵」という2つの由来を持つ地蔵尊についてお話しいただきました。華道家元の池坊歴代と縁深く、境内には、池坊三十二世の二代目専好から四十二世専正まで歴代のお墓も。華道といえば、あの「へそ石」で有名な“六角堂頂法寺”を思い浮かべた会員様も多かったようですが、街角の小さなお寺にも深い縁があったことを知って驚かれたご様子でした。

六条獄舎

善想寺を後にして、西へ進むと、2つ並んだ石碑が住宅街の一角にひっそり佇んでいました。1つ目は、かつての刑務所にあたる「六角獄舎」があったことを伝える石碑。幕末の「蛤御門の変」で京都の町中が大火に見舞われ、獄舎に火の手が迫ってきたところ、捕らえられていた尊王攘夷派の志士たちが脱走するのをおそれ、罪に関係なく殺してしまったという、何とも残忍な事件が起こった場所です。もう1つは、江戸時代の医師・山脇東洋が「六角獄舎」で死刑となった罪人の死体を用い、官許を得て人体解剖を行った場所を示す石碑で、「日本近代医学発祥の地」と刻まれています。静かな住宅街の中に、江戸時代の2つの歴史を物語る重要な地であったことを垣間見ることができました。

武信稲荷神社

最後に訪れたのは「武信(たけのぶ)稲荷神社」。龍馬ゆかりの地は京都に数多く残りますが、この神社もその一つ。龍馬が妻おりょうへ安否を伝えるため、御神木の榎の木の幹に「龍」の文字を彫ったことで二人は再会できたと伝わり、現在では、縁結びの社として参拝者が絶えません。縁結び以外にも、商売繁盛や秀吉が朝鮮へ出征する際、この神社の守護札「勝駒」を持参したと伝わることから、子宝に勝る、病気に打ち勝つ、受験に勝つ… などなどご利益いっぱい。ご利益豊富な神社に会員の皆様もそれぞれの願い事を込めて参拝されたご様子でした。実は私も密かに願いを込めて参拝させていただきましたよ。

三条通は、賑わいある繁華街の通りというイメージが強いですが、実は、“旧き”ものと“新しき”ものが融合した魅力あふれる通りであると改めて発見していただけたのではないでしょうか。ご参加いただいた皆様、らくたびガイドの安達さん、スタッフの皆様、善想寺青木ご住職、ありがとうございました。

 

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