【5月 葵祭】王朝絵巻のような行列を支える装束店
風薫る5月、下鴨神社と上賀茂神社の例祭として行われる葵祭。平安時代の宮廷風俗を再現した雅な装束の補修や新調、当日の着付けなど、多岐にわたる奉仕で祭りを支える中心となるのが、京都の装束店です。
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斎王代が腰輿(およよ)に乗って京都御所を出発
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行列を導くのは賀茂競馬の騎手、乗尻(のりじり)
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下鴨神社に着き、社頭の儀に向かう女人列
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下鴨神社で社頭の儀に参列する斎王代と女人
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下鴨神社の社頭の儀で御祭文を奏上する勅使
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社頭の儀で東游(あずまあそび)を奉納する舞人
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社頭の儀で演奏を終えた楽人、陪従(べいじゅう)
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風流傘を掲げる行列が上賀茂神社に到着
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格式高く長い裾(きょ)を引いて歩く勅使一行[上賀茂神社]
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5月15日の本祭を締めくくる走馬の儀[上賀茂神社]
葵祭とは…
『源氏物語』にも登場する歴史ある勅祭
葵祭の起源は6世紀、欽明天皇の治世の頃。凶作や疫病を鎮めるため、鈴を付けた馬と猪頭をかぶった人を走らせ賀茂大神を祀ったところ、風雨がやみ五穀豊穣がもたらされたといいます。現在も天皇の使者である勅使が派遣される格式の高い祭礼です。平安時代には「祭り」といえば葵祭を指し、『源氏物語』にも登場。正式名は賀茂祭(かもさい)ですが、葵の葉と桂の枝葉を絡ませた「葵桂」を、御所や社殿、装束、牛車などあらゆる所に飾ることから葵祭と呼ばれています。ハイライトは毎年5月15日に行われる「路頭の儀」。平安装束を身に付けた総勢500余名が京都御所の建礼門前から出発、下鴨神社(賀茂御祖神社)を経て上賀茂神社(賀茂別雷神社)へと向かう、華やかな王朝行列です。
葵祭とは…
『源氏物語』にも登場する歴史ある勅祭
葵祭の起源は6世紀、欽明天皇の治世の頃。凶作や疫病を鎮めるため、鈴を付けた馬と猪頭をかぶった人を走らせ賀茂大神を祀ったところ、風雨がやみ五穀豊穣がもたらされたといいます。現在も天皇の使者である勅使が派遣される格式の高い祭礼です。平安時代には「祭り」といえば葵祭を指し、『源氏物語』にも登場。正式名は賀茂祭(かもさい)ですが、葵の葉と桂の枝葉を絡ませた「葵桂」を、御所や社殿、装束、牛車などあらゆる所に飾ることから葵祭と呼ばれています。ハイライトは毎年5月15日に行われる「路頭の儀」。平安装束を身に付けた総勢500余名が京都御所の建礼門前から出発、下鴨神社(賀茂御祖神社)を経て上賀茂神社(賀茂別雷神社)へと向かう、華やかな王朝行列です。
平安貴族の伝統装束を受け継ぐ本列
〜 舞人の袴は華麗な型摺り 〜
葵祭の500余名の行列のうち、約450名の男性による本列の装束を一手に担うのが木村新造装束店。慶長5年(1600)に創業し、冠や烏帽子を扱う「冠師(かんむりし)」として御所に出入りするうち衣服も扱うようになったそうです。葵祭の男性装束で特徴的なものに、平安貴族が朝廷に出仕する際に着た正装「束帯」があります。その一例を代表の木村佳宣さんに見せてもらいました。舞人(まいびと)の袴は桐竹雉(きりたけきぎす)の伝統文様。これは染めたり織ったりした柄ではなく「白の絹地に型紙と刷毛を使って摺(す)るんです」と木村さん。写真で木村さんが手にしているのが型紙です。華やかな「摺箔(すりはく)」は同様に型紙を使って生地に糊(のり)を置き、上から金箔をのせて摺り付けるのだそうです。
優雅な「裾」と超絶技巧の刺繍に注目
舞人は下鴨神社と上賀茂神社で行う「社頭の儀」(一般非公開)で、陪従(べいじゅう)が奏でる雅楽の調べにのって舞う「東游(あずまあそび)」を奉納します。6名の舞人と7名の陪従が、長い裾(きょ)を下ろした揃いの装束をまとう姿は壮観。騎馬中は石帯に挟みますが、上賀茂神社では社頭の儀の前に馬から降りて進む際、優雅に裾を引いて歩く姿を見ることができます。また、陪従の袍(ほう)には葡萄色に映える獅子の刺繍が。石帯に巻く部分はどうしても傷みが進みますが、技術的にも高度な刺繍の新調は気軽にはできないため、手入れしながら長く使い続けているそうです。
伝統の技「捻り仕立て」
単(ひとえ)の装束に用いられている技法を見せてもらいました。断ち切った布の端を縫わずに、煮溶かした餅を糊として、こよりのように巻きながら固める「捻(ひね)り仕立て」です。平安時代にはすでにあった技法だとか。生地を縫い合わせる前に行う作業で、端のほつれ止めにもなり、また裏地のない単でもハリが出て、その上に重ねて着る装束の見栄えが良くなるそう。糊を利かせて張りをもたせた、いわゆる強装束(こわしょうぞく)に使われる技法です。
斎王代をはじめ華やかな女人列
〜 そっと目立たせる"おしゃれ"の技 〜
女人列とも呼ばれる斎王代(さいおうだい)列の装束を担当するのは、京都4社・東京1社の装束店で構成される六選会。現在は京都の高田装束店・加藤充則さんが理事長を務めています。女人列の着装には、六選会のほか衣紋(えもん。着付けのこと)の技術者が関わります。加藤さんは装束の準備だけでなく、衣紋方(えもんかた)として祭り当日の斎王代の着付けにも携わっています。「路頭の儀」では、斎王代は「腰輿(およよ)」と呼ばれる輿に乗っていますが、そこから十二単のすそを出す出衣(いだしぎぬ)に注目。御簾や几帳から衣のすそを出しておしゃれをアピールした平安文化を踏襲しています。「襲(かさね)の色目が左右均等になり、美しく整うよう心を配っています」と加藤さん。
2回の「本番」を支える 京都の匠の力
髙田装束店は寛永元年(1624)創業。かつては宮中の内蔵寮御用装束調進方を務めており、現在も宮内庁の業務を請け負っています。4月の後半に、御所の蔵から装束を出し本格的な祭りの準備が始まります。実は、5月15日の本祭に先駆けて5月4日に行われる斎王代御禊(ぎょけい/みそぎ)の儀でも衣紋方を務めるため、「本番が2回あるようなもの」なのだそう。本祭の後は、補修が必要な装束を5社が分担して持ち帰り、次の祭りに備えます。新調する場合は、元のものと同じ色柄で製作。「例えば袿(うちき)や小袿(こうちき)なら、糸の製造から染め・織り・糊張り・仕立てなど、軽く10工程以上の職人が関わります。金属の装飾品はまた別の職人が。京都には各専門の職人が集まっているので、実物があればだいたいの品は同じものを作れます」。千年の都ならではの多彩な匠の力にも、葵祭は支えられています。
女人装束の細部に注目! 華麗な有職文様も
華やかな女性の装束はすべて西陣織で、有職文様と呼ばれる伝統柄がふんだんに使われています。なかには糸を浮かせて立体感を出し、刺繍のように見える浮織(うきおり)を用いた装束も。袿は、衿元・袖口・すそで表地から裏地をはみ出させる仕立て。身分の高い女性が着る小袿は、表地と裏地の間に中陪(なかべ)と呼ばれる生地を加えることで、襲の色目がもう一色増えます。路頭の儀はこうした技術の粋がこらされた装束を見る、またとない機会です。
【7月 祇園祭】復興した山鉾、進化を支え続ける町衆
八坂神社の祭礼、祇園祭。毎年7月17日・24日に行われる豪華絢爛な山鉾巡行がつとに有名ですが、山鉾の中には戦乱や災害などに遭いながらも見事復活を遂げたものがいくつもあり、その進化を支え続ける人たちがいます。
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後祭の巡行で、舳先に大金幣を掲げる大船鉾
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右舷の妻板彫刻「汀に兎」のイメージ原画
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軒唐破風の下には2025年にできた妻板彫刻が
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天井には故・上村淳之による華やかな花鳥画
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2025年に復元新調された一番水引と二番水引
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船尾の「艫(とも)」にかかる大楫(おおかじ)は緋羅紗に雲龍の厚肉刺繍で1814(文化11)年作
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2024年に車輪を新調。一回り大きくなった
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宝暦年間のものを復元新調した、壮麗な前懸
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京都市役所前を堂々たる姿で巡行する大船鉾
祇園祭とは…
町衆が苦難を乗り越えつないできたお祭り
祇園祭の起源は貞観11年(869)。当時、日本にあった国の数と同じ66本の矛を立て、内裏の南にあった神泉苑から神輿を祇園社(今の八坂神社)に送り、疫病退散を祈願した「祇園御霊会」が始まりとされています。大火や戦乱で幾度も中断を余儀なくされましたが、そのたびに蘇ってきました。中でも「動く美術館」とも言われる「山鉾巡行」は室町時代頃から続くと言われ、応仁の乱後には町衆が競い合って山鉾を飾り立てるように。幕末の大火などで休み山・休み鉾も多く出ましたが、第二次世界大戦後から2026年現在までに、6つの山鉾が復興を遂げています。山・鉾を新造し飾り(懸装品)などを復元新調しながら、何年もかけて往時の輝きを取り戻す様子には目が離せません。
祇園祭とは…
町衆が苦難を乗り越えつないできたお祭り
祇園祭の起源は貞観11年(869)。当時、日本にあった国の数と同じ66本の矛を立て、内裏の南にあった神泉苑から神輿を祇園社(今の八坂神社)に送り、疫病退散を祈願した「祇園御霊会」が始まりとされています。大火や戦乱で幾度も中断を余儀なくされましたが、そのたびに蘇ってきました。中でも「動く美術館」とも言われる「山鉾巡行」は室町時代頃から続くと言われ、応仁の乱後には町衆が競い合って山鉾を飾り立てるように。幕末の大火などで休み山・休み鉾も多く出ましたが、第二次世界大戦後から2026年現在までに、6つの山鉾が復興を遂げています。山・鉾を新造し飾り(懸装品)などを復元新調しながら、何年もかけて往時の輝きを取り戻す様子には目が離せません。
巡行のしんがりは復活した大船鉾
〜 飾り付けが続々とバージョンアップ 〜
山鉾巡行には、神輿の進む道を先祓いする役割があります。そのため、神輿が八坂神社から氏子区域に渡御する「神幸祭」の前に行う前祭(さきまつり)に23基、神輿が八坂神社へと還る「還幸祭」に合わせて行う後祭(あとまつり)に11基の巡行が行われます。その後祭の山鉾巡行に2014年、150年ぶりに復帰を果たし、行列のしんがりを務めるのが大船鉾です。復活当初は素木(しらき)の鉾でしたが、その後漆塗りや飾り金具が施され、傷みが激しかった幕なども徐々に新調するなど進化を続けています。2025年には鉾の側面を飾る新しい幕がお目見え。江戸時代のものをもとに復元新調された一番水引は、緋色の羅紗に迫力ある波と飛魚(とびうお)が豪華な刺繍で浮かび上がります。その下の二番水引は元と比べて雲形の窓絵の部分を大きくし、ダイナミックな見映えに。
荒ぶる神を鎮める「御霊船」
〜 陰陽を掛け合わせ安寧祈る姿に 〜
現在、力を注ぐのが軒唐破風の妻板に施す彫刻。(公財)四条町大船鉾保存会監事・鈴木辰規さんは「大船鉾は『御霊船(ごりょうせん)』がコンセプト。荒ぶる神『疫神』に、魅入られるほど美しいものをぶつけ、疫神を喜ばせつつ去ってもらう。その最後に、川に流れていってもらう御霊送りの船という考えをもとに意匠を考えています」と話します。右舷の妻板の意匠は「汀(みぎわ)に兎(うさぎ)」。安寧と豊饒を象徴する穏やかな波打ち際に月の象徴・兎を配し、そっとある芙蓉は気品と「秋」の「静」を暗示します。一方、左舷「巌(いわお)に烏(からす)」は、泰然とある巌に太陽の化身とされる八咫烏(やたがらす)を配し、風にそよぐ牡丹が富貴と「春」の「動」を表します。この、「日月・春秋・静動」で「日月相まって一日成る幸の永続」を願うといいます。陰陽を対比させたイメージ原画は同会理事で芸大出身の佐々木定寿さんが担当し、そこからさらに堂宮彫刻師の下田修寛さんが下絵を起こし彫刻。2026年7月の巡行では、彩色後の姿でお目見えする予定です。
縁をつないで復活した龍頭
大船鉾をもつ四条町はかつて北四条町と南四条町が交替で巡行を受け持ち、北四条町の年は舳先に龍頭を、南四条町の年は大金幣を掲げていました。2014年の大船鉾復活時に残されていたのは大金幣だけでしたが、2016年に龍頭を製作、現在は1年交替で登場しています。もとの龍頭は、四条派を代表する絵師・呉春(松村月渓)の下絵をもとに彫物師・九山新之丞が作ったと推測されますが、元治の大火(1864年)で焼失。同じ九山家の手になる龍が京都の瀧尾神社にあった縁から、瀧尾神社より寄進されることになり、緻密な考証のうえで製作されました。
100年先を見据えた鉾の姿に
~ 応援する人を広く募って未来につなぐ ~
現在、軒唐破風の妻板彫刻とともに、製作を進めているのが懸魚(げぎょ)。鳳凰をかたどった彫刻になる予定で、こちらは2027年の巡行でお目見え予定です。さらに虹梁飾りや妻飾りなど、細部の彫刻の構想も進行中。祇園祭の長い歴史の中で、山鉾は復興のたびに立派になってきたと言われています。「先人の残したものをしっかり見つつ、100年先の子孫に笑われないように、整えていかないといけないと思っています。毎年進化している山鉾の成長を、同じ時代に生きる皆さんにはぜひ見て頂きたいですね」と(公財)四条町大船鉾保存会理事長の木村宣介さん。懸装品の新調の際には一般からの寄付も広く募集。応援する無名・有名のサポーターとともに、祇園祭の山鉾は、未来へと力強くつながれていきます。
サポーターの名を乗せて巡行
鉾の下に入ると、全重量を支える頑丈な木材「石持(いしもち)」が車軸に乗せられ、櫓の柱としっかり縄で固定されている様が見えます。その「縄がらみ」の付近には、たくさんの墨書が。これは大船鉾の復興にあたり寄付を行った人たちの名前です。このように寄進者へ敬意を払って、完成品に氏名を記すのは、祇園祭伝統のスタイル。歴史に名が刻まれるならと、思い切って寄付をする人も少なくないそうです。
【8月 五山送り火】祈りをこめて山を守り継ぐ人々
毎年8月16日、夜空に「大」「妙」「法」の文字と、船や鳥居の形が幻想的に浮かび上がる「五山送り火」。京都に夏の終わりを告げる風物詩は、各山を守る地元の皆さんが数百年以上にわたって継いできた伝統行事です。
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松ヶ崎西山で行われる「妙」の送り火
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7月末、火床で焚き上げるアカマツ割り木が家々へ
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「妙・法」の地元は用水路が流れる松ヶ崎
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送り火当日。割り木を井桁に組む「妙」の山
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「法の字山」とも呼ばれる、松ヶ崎東山
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8時5分、合図を受けて各火床に一斉点火
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前夜には伝統の踊りが涌泉寺で行われます
五山送り火とは…
お盆を締めくくる精霊送り
送り火は、お盆に迎えた先祖のお精霊(しょらい)さんを再び浄土に送る、お盆行事。山の上に数多くの火床を配し、その炎全体で模様を描く「送り火」がいつから始まったのかは不明ですが、1600年代の文献には送り火に関する記述が複数見られます。かつては10以上の山で行われたともいいますが、現在は毎年8月16日の夜、京都市北部の五つのエリアの山で「大」「妙・法」「船形」「左大文字」「鳥居形」の送り火が順にともされ、約30分間、幻想的な炎が夜空を彩ります。また、この送り火に合わせた行事として、「妙・法」の涌泉寺では松ヶ崎題目踊・さし踊(京都市登録無形民俗文化財)が、「船形」の西方寺では、西方寺六斎念仏(重要無形民俗文化財)も行われています。
五山送り火とは…
お盆を締めくくる精霊送り
送り火は、お盆に迎えた先祖のお精霊(しょらい)さんを再び浄土に送る、お盆行事。山の上に数多くの火床を配し、その炎全体で模様を描く「送り火」がいつから始まったのかは不明ですが、1600年代の文献には送り火に関する記述が複数見られます。かつては10以上の山で行われたともいいますが、現在は毎年8月16日の夜、京都市北部の五つのエリアの山で「大」「妙・法」「船形」「左大文字」「鳥居形」の送り火が順にともされ、約30分間、幻想的な炎が夜空を彩ります。また、この送り火に合わせた行事として、「妙・法」の涌泉寺では松ヶ崎題目踊・さし踊(京都市登録無形民俗文化財)が、「船形」の西方寺では、西方寺六斎念仏(重要無形民俗文化財)も行われています。
「妙法」の山を守る松ヶ崎立正会
〜 桓武天皇が率いた民の子孫がつなぐ 〜
五山送り火は各山の保存会によって行われています。その一つ、「妙」の松ヶ崎西山と「法」の松ヶ崎東山を守っているのは、(公財)松ヶ崎立正会。松ヶ崎は桓武天皇が平安京遷都の際に奈良・平城京から集団移住させた百軒の農民が礎になったと伝わる地で、その末裔を中心とした約70世帯で構成されています。「お彼岸などには皆で集って読経する風習が今も残ります。そういうつながりもあり、住民同士が協力し合う土地柄でしょうか」と話すのは、同会理事長で京都五山送り火連合会会長も務める岩﨑勉さん。送り火の保存継承に山の保全は欠かせないため、定期的に点検し、毎年、火床、山道などの施設整備や支障となる木の伐採を行っています。近年では法の字山での鹿の食害を防ぐため、クラウドファンディングで資金を集め、火床周辺の四方に防鹿柵を設けてツツジ等を再生、表土流出を防いで火床を守るプロジェクトを展開しました。また、ご先祖供養とともに祈りや願いを書いた木札を火床で焚き上げる「護摩木」の志納受け付けも地元で行っています。
護摩木に祈りをこめる ~送り火の営みのサポートも~
名前と願いを記し、神聖な炎で焚き上げるとその願いがかなうと言われる「護摩木」。五山では、古くから地元の人々により護摩木が火床に供えられてきました。今では誰もが護摩木を志納することができます。「妙・法」の山で焚き上げる護摩木は、地下鉄松ヶ崎駅1番出口西隣の武與門ビルで8月15日・16日に受け付け。その場で好きな願いを書いて志納すると16日夜の送り火で焚き上げてもらえます。その他「大」「船」「鳥居」「左大文字」それぞれの山の地元でも、護摩木の志納を受け付けています。志納料は送り火行事の運営に充てられるので、送り火を担う人たちへの感謝も込め参加してみては。
祈りの炎をともすまでの3週間
7月末、アカマツ割り木を分配
7月末の朝、送り火をともすアカマツの割り木を、火床を担当する約70世帯に分配します。各家は割り木を持ち帰り、軒下などで約3週間、火が付きやすいよう乾燥させながら保管します。「引っ越しや高齢化で担当できる世帯が減ってきましたので、現在は松ヶ崎小学校の学区住民などが参加する『まっちゃきネットワーク』にも、火床3箇所を担当してもらっています」と岩﨑さん。アカマツ割り木が将来にわたって確保できるよう、(公財)松ケ崎立正会では所有する松ヶ崎林山(妙と法の間にある山)の山頂部と山麓部にアカマツ苗木を150本ずつ2024年に植樹したそうです。
前夜は伝承の踊りを揃いの浴衣で
送り火前日の8月15日、夜8時頃、山腹に佇む涌泉寺では、揃いの浴衣に身を包んだ檀家による「題目踊」が始まります。「題目踊」の起こりは鎌倉末期。住職・実眼が、日像(日蓮上人の孫弟子)の説法に心服。日像が実眼の願いに応じて村に出向き説法したことで1306年夏、村人全員470人余が天台宗から日蓮宗に改宗しました。それに歓喜した実眼が太鼓を叩いて踊り出し、村人もみな一緒に踊ったのが「題目踊」の始まりだといいます。静かな動きの踊りには情趣が漂い、眺めていると心が凪いでいくよう。「題目踊」に続く「さし踊」は一転にぎやかな音頭で、檀家以外の見学者も参加して行われます。
送り日前日から朝にかけ、山に登る
8月15日の夕刻から8月16日の昼にかけ、各家の人々は保管していたアカマツ割り木を担いで山に登ります。かなり急な斜面で、登る人はみな汗びっしょりに。「妙」は103の火床が、「法」は63の火床があります。担当の火床にそれぞれ割り木を運んだ人たちは、それを巧みに井桁に組んでいきます。組み上がった火床には、「ご先祖供養」とともに、「家内安全」「心願成就」など様々な願いが記された護摩木が差し込まれます。
8月16日、願いをこめて点火
夜8時5分、おごそかに火を送る
8月16日の夜7時半頃、送り火に従事する人たちが次々と山に集います。一つの火床に2人配置が目安となるため、火床108の「妙」の字の松ヶ崎西山には200人以上が集まります。午後8時、東の大文字山に「大」の火がともったのを見届けたあと、8時5分、合図を受けて一斉に点火。涌泉寺住職の読経と太鼓が響くなか炎は天に立ち上り、荘厳な雰囲気に。やがてだんだん小さくなる炎は8時半頃、合図で一斉に消火。住職が再び読経しながら下山するのに続き、皆もゆっくりと降りていきます。「今年も無事に終わりました」と安堵の表情を見せる岩﨑さん。地域の行事でありながら、京都じゅうの人が見守る大仕事は、人々のひたむきな営みによって続いています。
【10月 時代祭】維新の調べ奏でる鼓笛隊を地域で育む
平安遷都の日にあたる10月22日、平安神宮の大祭・時代祭が行われます。厳密な時代考証と京都の伝統工芸の粋をこらして仕立てられた衣装で都大路を練り歩く「時代風俗行列」は、京都に暮らす市民が支えています。
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京都御苑を出発。時代行列の先頭は維新勤王隊列
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出発地の京都御苑へ向け二条城横を行進
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京都御苑に到着。この後本行列の集合場所へ
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乗馬の練習を重ねて本番に臨む騎馬将校役
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口伝を記した「譜面」は読み解くのも大変
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祭りの前々日は衣装を身につけ最後の行進練習
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行列には京都で活躍した歴史上の偉人が登場
時代祭とは…
新生京都への希望が生んだ市民の祭り
幕末の戦乱と東京奠都(てんと)で、住民が3分の2にまで減ったという明治初期の京都。荒廃した京都に再び活気をと、平安京誕生から1100年の節目となる明治28年(1895)、平安遷都千百年紀年祭と内国勧業博覧会の誘致が計画され、京都市民の心のよりどころとして平安神宮が創建されました。「動く歴史風俗絵巻」とも言われる時代行列は、このとき、平安遷都千百年紀年祭を祝う市民行事として始まったものです。翌年から平安神宮御祭神の鳳輦(ほうれん)を奉じる神幸列も加わり、時代祭となりました。行列も、衣装の管理や着付けも、費用の負担も、中心となっているのは京都に暮らす市民。京都1200年の歴史を振り返りながら、その担い手の一人として参加する、市民の誇りが輝く祭りです。
時代祭とは…
新生京都への希望が生んだ市民の祭り
幕末の戦乱と東京奠都(てんと)で、住民が3分の2にまで減ったという明治初期の京都。荒廃した京都に再び活気をと、平安京誕生から1100年の節目となる明治28年(1895)、平安遷都千百年紀年祭と内国勧業博覧会の誘致が計画され、京都市民の心のよりどころとして平安神宮が創建されました。「動く歴史風俗絵巻」とも言われる時代行列は、このとき、平安遷都千百年紀年祭を祝う市民行事として始まったものです。翌年から平安神宮御祭神の鳳輦(ほうれん)を奉じる神幸列も加わり、時代祭となりました。行列も、衣装の管理や着付けも、費用の負担も、中心となっているのは京都に暮らす市民。京都1200年の歴史を振り返りながら、その担い手の一人として参加する、市民の誇りが輝く祭りです。
時代行列のトップ、維新勤王隊列
〜 約百年前の鼓笛隊のリズム&メロディを猛練習 〜
時代列の先頭を行くのは「明治維新時代」の維新勤王隊列。「ピーヒャラ、ラッタッタ」という「戊辰行進曲」の軽快な調べは、時代行列の象徴です。演奏するのは、二条城西側の「朱雀第1~第8学区」の住民を中心に構成する「平安講社第八社」の隊士たちです。毎年7月から中学生〜40歳頃の男性を対象に隊士の募集を始め、隊が発足するのは9月下旬の入隊式。平安神宮の神職による修祓(しゅばつ)や宣誓を経て入隊した隊士は、それから約1か月間、日・祝を除く毎晩、地元中学校の体育館で練習に取り組みます。近年では西洋音楽の音符を使う試みも始まっていますが、伝えられてきた「譜面」は節回しを文字で書き記したもの。最初は音を出すのも難しい篠笛やズシリと重い太鼓を相手に、元隊士の指導員たちに導かれながら、練習を重ねます。
130年の歴史、未来へつなぐ
〜 地域が守り、育て、継いでいく祭り 〜
地域で育った子どもが「兄が演奏しているので自分も」「京都の文化を伝える一員になりたい」など様々なきっかけで隊士になり、年齢が上がると次は指導員に、やがて世話役に。行列の練習だけでなく、衣装の管理や拠出金等の取りまとめ、消耗品の調達など、祭りを維持する仕事はどれも、地域の人々の手弁当で担われています。平安講社第八社の常務理事(2025年当時)、我孫子正孝さんは「隊士はもちろん、時代祭をこよなく愛する指導員や役員が、仕事や家庭も抱えながら、祭りに携わり続けてくれることに頭が下がります」と話します。時代祭当日、地元学区の人々に見守られながら、維新勤王隊列が京都御苑を目指して出発するのは午前8時過ぎ。祭りの伝統と地域のつながりを受け継ぐ姿です。
維新勤王隊列の歩くコースは?
時代祭の行列は、京都御苑を出発し平安神宮へと向かうのが公式の巡行ルート。しかし、中には出発地の京都御苑までの道のりも巡行する時代列があります。維新勤王隊列もその一つで、地元の朱雀公園を出発して京都御苑まで演奏しながら行進。特に午前9時頃、二条城の横を通過する際はお城の石垣に隊士たちの勇壮な姿が映え、隠れた見どころです。ちなみに終着点の平安神宮から地域に戻ったあと、地元への感謝を込めてテンポを上げた「早打ち」で演奏しながら学区内を歩くのも、維新勤王隊ならではのフィナーレです。
行進曲のメロディと共に平安神宮へ
〜 本番やり遂げ、生まれる誇り 〜
京都御苑を正午に出発し、約4.5kmの道のりを演奏しながら進む維新勤王隊列が、平安神宮の大鳥居をくぐるのは午後2時20分ごろ。行進曲の調べが近づき、紅白の指揮旗を振るう楽長に続いて隊士が姿を見せると、沿道に鈴なりの観客は一気に盛り上がります。朝から歩き通し、特に初参加の隊士は、履き慣れないわらじによる足の痛みや携える鉄砲の重さなど予想外の大変さを実感した様子。それでも「沿道にいろんな人の顔が見られて楽しかった」と、達成感いっぱいの笑顔が広がります。楽長や指導員の方々も「短期間で集中して練習し、やり切ってくれました」と誇らし気。短くも密度の高い練習と、長い本番をやり遂げた隊員たちに、次代の京都人の誇りが育っていきます。
神前だけで奏でる特別な曲
行列のあいだ隊士たちが奏でるのは「戊辰行進曲」。ただ隊が受け継いでいる曲は、実はもう一曲あります。それが、出発前の京都御苑での神事の際と、平安神宮到着後の大極殿(外拝殿)前で奏でられる「朱雀行進曲」。少し哀調を帯びた複雑なメロディで、演奏するのは、10月中旬に行われる個人別演奏で練習成果が指導員から評価され抜擢された隊士たち。一般の観覧客が聞けるのは京都御苑だけなので、ぜひ耳を澄ませてみてください。
京都サステナツーリズム
地域に根ざした伝統文化を知る
古くから、京都には季節の移ろいとともに祭りや行事がありました。京都三大祭に数えられる「葵祭」「祇園祭」「時代祭」を筆頭に、今日もどこかで繰り広げられる行事。そのひとつひとつに歴史が詰まっています。
"観る"から"体験する"へ。京都に暮らす人々が大切に受け継いできた伝統文化を学び、未来へ思いを馳せましょう。
※写真・イラストはイメージです。
※掲載内容は2026年7月14日時点の情報です。最新情報は各掲載先へご確認ください。