京都府 × JR東海 presents

歴史文化講座

利 休 の 夢 、 秀 吉 の 夢

戦国から拓かれる茶の湯の世界開催レポート 戦国から拓かれる茶の湯の世界開催レポート

東京講座

[基調講演]

熊倉 功夫(MIHO MUSEUM館長)

「利休と秀吉が創造した茶の湯」

[トークセッション]

ロバート キャンベル(日本文学研究者)

小堀 宗実(遠州茶道宗家十三世家元)

熊倉 功夫

「日本人の生活に根ざす『茶の湯』」

講師紹介

熊倉 功夫
熊倉 功夫 (くまくら いさお)
MIHO MUSEUM館長

1943年東京生まれ。東京教育大学卒業。筑波大学教授、国立民族学博物館教授、林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長などを歴任する。ふじのくに茶の都ミュージアム館長。専門は日本文化史、茶道史など。和食のユネスコ無形文化遺産登録の際の検討会会長を務める。主な著書に『熊倉功夫著作集(全7巻)』(思文閣)、『日本人のこころの言葉 千利休』(創元社)、『日本料理文化史 懐石を中心に』(講談社学術文庫)、『茶の湯 わび茶の心とかたち』(中公文庫)、『茶道四祖伝書』(中央公論新社)など多数。

ロバート キャンベル
ロバート キャンベル
日本文学研究者

ニューヨーク市出身。専門は江戸・明治時代の文学、特に江戸中期から明治の漢文学、芸術、思想などに関する研究を行う。テレビでMCやニュース・コメンテーターを務め、新聞雑誌の連載、ラジオ番組など、さまざまなメディアで活躍。茶道裏千家の機関誌『淡交』で「ロバート キャンベルの名品に会いに行く」を連載中。主な著書に『東京百年物語』(岩波文庫)、『井上陽水英訳詞集』(講談社)、『日本古典と感染症』(編・角川ソフィア文庫)などがある。東京大学名誉教授。早稲田大学特命教授。

熊倉 功夫
小堀 宗実 (こぼり そうじつ)
遠州茶道宗家十三世家元

1956年生まれ。学習院大学卒業後、大徳寺派桂徳禅院で禅寺修行を積む。2000年大徳寺管長福富雪底老師より「不傳庵」「宗実」の号を授かる。2001年元旦、13世家元を継承。「茶の湯を通して心を豊かに」をモットーに世界中で文化交流活動を行う。2019年外務大臣表彰、2020年文化庁長官表彰。主な著書に『茶の湯の不思議』(NHK出版)、『日本の五感』(KADOKAWA)、『茶の湯と日本人と』(幻冬舎)などがある。また、新しい試みとしてonline Sado『不傳庵宗実の温茶会』を続々配信中。

CLOSE

2021年10月6日(水)に、東京のよみうりホールにて
歴史文化講座「利休の夢、秀吉の夢──戦国から拓かれる茶の湯の世界」が開催されました。

茶の湯に高い精神性を見出し、総合芸術へと高めた千利休。その新しい美意識は、パンデミックという「破壊の季節」を迎えた現代に何を問いかけるのか。
この講演会では、MIHO MUSEUM館長の熊倉功夫先生の基調講演、そして日本文学研究者のロバートキャンベル先生と、遠州茶道宗家十三世家元の小堀宗実先生をお迎えしたトークセッションをお届けし、利休の茶の湯と、これからの茶の湯についてお話しいただきました。茶の湯と俳諧の意外な関係や、ホスピタリティと「おもてなし」の違いなど、議論はおおいに深まりました。
当日の模様をご紹介します。

講師紹介

  • 熊倉 功夫

    熊倉 功夫(くまくら いさお)
    MIHO MUSEUM館長

  • ロバート キャンベル

    ロバート キャンベル
    日本文学研究者

  • 小堀宗実

    小堀 宗実(こぼり そうじつ)
    遠州茶道宗家十三世家元

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基調講演

「利休と秀吉が創造した茶の湯」
<抄録>
熊倉功夫氏

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小さな男、大きな男

 大阪の池田市にある逸翁(いつおう)美術館に、豊臣秀吉の姿を描いた絵が残っています。重要文化財ですが、実はこれは下書きで、完成品ではありません。この段階で秀吉に見せたところ「貴意(きい)にて候」————秀吉が「これいいよ」と言った、と但し書きにあり、つまり本人がよく似ていると言ったために大変貴重な画像となりました。日本人の平均身長150センチから153センチぐらいと言われる中で秀吉は猿のように小さかったと言いますから、だいたい140センチぐらい。本当に小さかった。

 次に千利休です。利休が亡くなってから長谷川等伯が描いた千利休像は、堂々たる顔つき、堂々たる体躯です。実は利休がもらったという甲冑が表千家から出てきました。修理して、14代家元の而妙斎(じみょうさい)宗匠が試しにそれを着てみたら、ちょうどよかった。而妙斎宗匠はだいたい165センチぐらいです。今なら中肉中背ですけれども、当時の165センチは相当の偉丈夫。利休は大男だったんですね。

 当時のいろんな記録の中にも、利休は大男だと書かれています。その大きな利休の前に、140センチの秀吉。身長差が25センチ。秀吉からすると相当威圧感がありますね。ですから、初めは仲間だと思っていたのにだんだん大男が気に食わなくなってきて、最後に切腹を命じたのではないか、と思えるぐらい、2人には体格上の問題があったようにも思います。

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待庵、新しい茶室

 利休が作り上げた茶の湯とはどんなものだったのでしょう。利休が作ったといわれるもので確かなものの一つが「待庵(たいあん)」という茶室です。山崎の妙喜庵(みょうきあん)というお寺の中にあって、たった2畳です。秀吉が座ると、利休と秀吉の距離感は、だいたい1メートルあるかないか。いや、もっと狭い。そういうところで利休がお点前して、秀吉がお茶を飲むわけです。利休はこのとき初めて、躙口(にじりぐち)という小さな出入り口を作りました。だいたい66センチですから、人の出入りを拒否するような入り口です。ここにやっぱり利休の思惑があるのでしょう。全国に茅の輪(ちのわ)くぐりという神事がありますが、6月30日に神社などの社頭に茅で作った輪が置かれ、それをくぐればこれからの暑い夏を無病息災で過ごすことができる、と言われます。小さな口をくぐり抜けると浄化され、人間が生まれ変わる、という深層心理があるのでしょう。茶室についても、外は俗界だけれど、躙口をくぐった中は清浄の世界で、浄められた人間でなければ入れない空間。こういうものを作ったのが利休なのです。

 次に壁です。壁土が落ちないようにつなぎの繊維を入れるのですが、普通はその上から上等な細かい土で上塗りをしてきれいにします。ところが待庵の壁は上塗りせず、藁が見えるまま。荒壁であることが美しい、という感覚ですね。框(かまち)も丸太のままです。本来、座敷の框は角にきちっと削るものです。今でこそ和風住宅には丸太材をたくさん使いますが、その出発点がこの待庵なのです。

 利休はさらに、茶室に向かう途中に手水鉢(ちょうずばち)を設けました。本来、神社仏閣の入り口で穢れが境内に入らないように心身を清めるものですが、茶室にも俗世間のさまざまな穢れを茶室に持ち込んではいけないということで手水鉢が茶の湯の庭にも置かれるようになったのです。しかも、手水鉢はしゃがみこんで使う、つまり這いつくばうから「つくばい」と言います。躙口でもつくばいでも、人はしゃがみ込むというわびた姿を見せることになります。利休は茶の湯での「ふるまい方」も示したのです。

道具と見立て

 利休はどんな茶碗を作ったか。樂長次郎作の「大黒(おおぐろ)」という茶碗があります。特徴は、立ち上がりがすっとして、高台は丸く削られていて、低い。真っ黒です。何もない。どこにも作為がないように見えます。作為はあるのですが、隠されている。いかにも自然な姿。一切の装飾性を拒否した、こんな茶碗を利休は注文したのです。

 次は釜です。お湯を沸かすための釜は大昔からいくらでもありますが、茶の湯のために初めからデザインされた釜が作られました。「阿弥陀堂」という釜は利休が型紙に作り、与次郎という釜師が作りました。その試作品ができたとき、まだ幼かった利休の孫の宗旦が、このとき利休が与次郎に指示した言葉を覚えていました。「肌をかつかつと荒らし候へ」。形は利休のデザイン通りだけれど、「もっとガリガリッと粗くしてくれ」と言ったのです。そんな肌合いが利休さんの望むところだったようです。

 次に花入です。利休以前には竹の花入れはありませんでした。利休の作った竹の花入で「園城寺(おんじょうじ)」というものがあります。園城寺、つまり三井寺(みいでら)の釣り鐘は大きなひび割れがありますが、この花入れもひび割れがあるので、鐘のひびに見立ててこの銘を付けたのです。「桂籠(かつらかご)」という花入れも、もともとは桂川の漁師が捕った魚を入れておくための籠です。「あ、これは花入になるじゃないか」と言って利休が使った。これが見立てです。本来どう使われているか、ではなくて、自分がそれを持ったらどう使おうか、それが見立てです。

権力者を〈演出〉する

 利休のもう一つの美の創造に「破壊」があります。もうできあがったものを壊してしまうのです。しかし利休のこのような方法は、周りの人から見ると危なっかしくてしょうがない。弟子の山上宗二が「利休という人は、山を谷、西を東と言いなして、茶の湯の法度を破る」と書いています。みんなが西というところを東と言い、山と言うところを谷だと言う。世の中の常識と正反対のことを平気でやる人だと。「茶の湯の法度を破りて自由にする」……これが利休の生き方であり、戦国がそういう時代でした。常識や階級というものを壊して、新しいパラダイムを作り出したのです。

 そのような時代の波に乗って出てきたのが秀吉であり、その秀吉のよきパートナーが利休でした。秀吉はこの天才的な演出家、美の創造者を120%利用するわけです。秀吉の時代の政治は、劇場化していました。人々の目を引くようなことが政治スタイルの一つになります。安定期には天皇も将軍も隠れて見えませんが、激動期には権力者が民衆の前に姿を現します。その「権力者登場の場」を作ったのが演出家としての利休でした。

 秀吉をセレモニーの主人公にするには、どういう場を作るか。利休は秀吉のために黄金の茶室を作りました。これはポータブルで、九州の名護屋城でも京都でも、あちこちで使われています。天正13年に秀吉が正親町天皇にお茶を差し上げる禁裏茶会も利休の演出でした。宮中での茶会はこれが最初で最後です。

 もう一つはイベント。つまり大衆を動員した北野大茶の湯です。天正15年10月1日に北野の松原で開かれたお茶会は、800席が作られたと言います。北野の社殿の真ん中に利休と津田宗及、今井宗久、そして秀吉がそれぞれ茶席を設け、そこでお茶を飲むためのくじ引きまでありました。それこそ空前絶後。

 秀吉は茶の湯というものを一つの政治文化にしました。そこに利休と秀吉の接点があったわけです。おかげでお茶は日本を代表する大文化になりました。

蜜月のおわり

 秀吉が「こんなことやりたい」と言えば、利休は思いがけないアイデアをどんどん出し、それを秀吉が楽しむ。利休からすると、秀吉の蔵の茶道具をわが物顔に使えます。2人は蜜月でした。お互いに許し合う関係だったと思います。それが壊れ始めるのが天正15年。秀吉が島津を征伐してほぼ全国を制覇すると、その恩賞を自分の配下に与えるために新しい領地を求め、朝鮮半島に目を付けます。そうすると、その前線基地である九州博多の商人・神屋宗湛(かみやそうたん)が秀吉にとって非常に重要な人物になってきました。堺を基盤とする利休の地盤沈下です。

 加えて、下剋上の時代が終わりました。秀吉からすると次に下剋上を起こったら自分がひっくり返されます。その芽を摘むために、秀吉は太閤検地や刀狩りなどをして、新しい中央集権的な政権を目指しました。その体制では、利休のような下剋上的な茶の湯も邪魔になります。天正17年12月、利休が大徳寺山門の修理を完成した記念に利休の木像を山門上に置いたところ、利休を排斥しようとする人たちが問題視します。勅使や秀吉も通る門の上に、利休が雪駄履きで立っているのは不敬ではないか、と。これがいよいよ政治問題化するのが天正19年の正月。利休は一気に突き落とされるような状況に置かれます。

 そして2月、利休は「切腹せよ」という命令を秀吉から受けました。利休は死を前にして自分の心境を四字四行にまとめる遺偈(ゆいげ)を記します。「人生七十、力圍希咄(りきいきとつ)、吾這寶剣(わがこのほうけん)、祖佛共殺(そぶつぐせつ)」。人生70年、もうすべきことを全部したと。この宝剣を持って一切合切を切り捨てて、無の世界に行こう。「堤る我得具足の一太刀(ひっさぐるわがえしぐそくのひとたち」、私が持っているこの宝剣すらも「今此時ぞ天に抛(いまこのときぞてんになげうつ)」、今は放り出してしまおう。

 利休はどこかでまだ戦えると思っていたのかもしれません。最後のお茶会には徳川家康を呼んでいます。秀吉に対抗できる唯一の人物です。でも、それももういらない、と。遺偈を書いた3日後、2月28日に切腹して亡くなります。

 秀吉と利休という天才と天才がぶつかったとき、何が起こるか。パトロンとアーティスト。パトロネージがなければ芸術というのは発現できませんが、芸術家は必ずしもパトロンの意のままになるわけじゃない。そこで深い溝ができて悲劇に至る。これは世界の美術史でいくつも見られるテーマです。そのように見ると、秀吉と利休の結末は、なるべくしてなったように思われるのです。

トークセッション

「日本人の生活に根ざす『茶の湯』」
<抄録>

ロバート キャンベル氏小堀宗実氏熊倉功夫氏

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利休の手

熊倉先生

熊倉先生

利休という存在は後世にとても大きな影響を与え、今日まで私たちは利休の作ったもの、残されたものを受け継ぎ、変えてきたという長い歴史があります。利休の姿を最後に見た人の一人が、小堀宗実先生の先祖の小堀遠州です。たしか遠州10歳の時ですよね。10歳の子供が当時最高の茶の湯者に逢うなんて、本当はあり得ないですよね。
小堀先生

小堀先生

たまたま遠州の父親(小堀新介)が秀吉の弟の秀長に仕えていて、遠州(当時・作介)はお小姓(こしょう)を勤めていました。秀長が秀吉を招く際に茶の湯でおもてなしをするということになり、前日に秀長は利休を呼び寄せて教えを乞いました。遠州は外で控えていたのですが、幼な心に中の様子を見ようと襖をすこし開けたところ、利休に「風が入りますよ」と言われた、というエピソードがあります。利休は頭巾をかぶり指導していたそうです。利休のたたずまいを見た、ということを遠州が晩年に語ります。それは彼の人生にとって利休との出会いはとても大きな出来事だったということでしょう。
熊倉先生

熊倉先生

10歳の野球少年が長嶋さんに会うようなものですね。
小堀先生

小堀先生

今だったら大谷翔平ですよ(笑)。
キャンベル先生

キャンベル先生

先日、15代目樂吉左衛門(らく・きちざえもん)さんのもとに伺い、長次郎の「面影」という黒樂の茶椀を見せていただく機会がありました。茶室の自然光の中で実際に手に取らせていただいたとき、長次郎の三本の指の溝のような凹凸が残されているのがわかりました。手づくねでへらで造形していて非常になめらかですが、私の大きい手にぴたりと止まる。この凹凸の大きさは450年前の日本人の手には余ったのではないか。ひょっとして千利休の手も大きかったのではないか、そんなことを思いました。
熊倉先生

熊倉先生

とても大事なことです。450年前の利休の手、あるいは長次郎の手に、いまキャンベルさんが触っているということ。宗実さんという、利休を見た人の子孫がいる、ということ。あのときの子孫がいる、そのときの茶椀が今残っている、これも「茶の湯」の力です。茶の湯があればこそ、時代を超えて直に手を触れる世界が今ここにあるのですね。
小堀先生

小堀先生

茶の湯の魅力の一つに、やはり「道具」があげられます。キャンベル先生のように、茶椀を手に取っていろいろな想像ができるわけです。利休の生きた戦国時代と遠州が仕えた徳川の幕藩体制が整う時代の間には大きな転換期がありました。利休の作った竹の花入れ「尺八」に遠州は憧れ、似たものを探し出して、「深山木(みやまぎ)」という銘を付けました。ところが利休の尺八は上をズバッと切っていますが、遠州の尺八は「節」を残している。節があるか、ないか。礼節、節度というように、徳川家に仕える遠州は節を大事にしました。でも利休はそういうものを抛(なげう)った人です。利休は抛筌斎と号し、遠州は忘筌。捨てると忘れる、大きな違いです。それが利休の生きざまであり、厳しさでしょう。これが後の悲劇も生み出したのかもしれません。そんな想像もできるのです。
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〈銘〉をつける

キャンベル先生

キャンベル先生

永青文庫にある「顔回(がんかい)」というひさごの花入れを拝見しました。伝承としては巡礼者が腰に付けているものを利休がゆずり受けて、真ん中をスパッと切って花入れにしたと言います。口の部分は左右対称ではなく、すこし曲がっている。とても鋭利なもので切られたと思われます。織部や遠州のような寛永時代との違いを感じました。
熊倉先生

熊倉先生

「顔回」という花入れは真っ黒なふくべですが、ふくべは東アジアでは便利な道具として日常で使われていました。瓢箪の「瓢」が水を入れる「ふくべ」で、竹筒の「箪」には干し飯を入れ、セットとして使っていました。この「顔回」という銘がおもしろいですね。
キャンベル先生

キャンベル先生

顔回は孔子の一番弟子で、『論語』に出てきますが、たいへん質素な男で、今でいうミニマルな生活を嗜好する人であり、一箪の飯、一瓢の水で生活していたと言います。だからこのふくべにも顔回という銘が付いたそうです。ふくべという日常的なツールに、不滅の古典である『論語』に登場する人物の名前を付けるということ。俗に雅を合わせる、高次と低次を合わせる。これがいわゆる「見立て」で、もう一つの意味を付けるダブルミーニングになります。そういう表現法が日本の美学や世界観を表していると思います。
小堀先生

小堀先生

小堀遠州は文学のイメージを道具のイメージに重ねあわせた人です。道具に固有の名前を与えて差別化し、唯一無二のものにしていきます。消耗品には銘がつきません。遠州以前の銘には形や持ち主の名前が多いのですが、遠州の場合はどういう風に手に入れたか、または釉薬がどう見えるかというところで何かに見立てたりして、銘によって道具にストーリーを与えてきました。利休の頃には必要とされていませんでしたが、遠州の時には必要になっていきます。
熊倉先生

熊倉先生

名物の世界が広がって、茶の湯が生活の中に入ってくるということと関係があるのでしょうね。
キャンベル先生

キャンベル先生

茶の湯ではたとえば茶入などにストーリーを与えて、交換したりして主客が遊び、その場の中でストーリーを共有したのではないでしょうか。
熊倉先生

熊倉先生

「銘」は客と亭主のひとつの橋渡しなのですね。
小堀先生

小堀先生

利休が竹を一本持ってきて、茶席で使うと、ぴしっと場が決まる。あるがままのものを茶の湯の道具に変えてしまいます。それだけ利休には眼力、力量がある。長次郎の茶椀ほど素直なものはなくて、とてもシンプルに見えますが、眼力ある利休と出会ったからこそ成し遂げられた造形です。利休には見立てる力があって、技術のある人に思いを託して作っていきます。見立てとは、どのように使うか、ということ。利休がそこに座してお茶をたてるとき、道具は粗相の物でなくなって、美に変わっていく。これが茶道の見立てる力だと思います。
熊倉先生

熊倉先生

現代の見立ての名人は民芸の柳宗悦でしょう。誰が気づかなかったものに美を発見し、価値観を180度変えてしまう。そのようなことが、これからの時代にも興ってほしいですね。初期の茶人たちも従来見つけられなかったものを見つけたのです。
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茶の湯と俳諧が出会った

熊倉先生

熊倉先生

18世紀になると、茶の湯と俳諧が結び付きます。日本人はよく「四季を大事にする」と言われますが、利休の時代の茶の湯には季節感があまりありません。今なら茶事では一番大事にされることですが、季節を意識するのは元禄以後ではないかと思うのですが、これは俳諧の影響がとても大きいと思います。
キャンベル先生

キャンベル先生

元禄以降では談林俳諧など都会的な洒脱で軽妙なものと、芭蕉のような古典的な重低音を重んじるような俳諧と、二つの方向に発展していきますね。
熊倉先生

熊倉先生

芭蕉のようなものでなはく、むしろ遊芸的な月並俳諧みたいなものが展開するときに茶の湯が大発展します。
キャンベル先生

キャンベル先生

そうですね。18、19世紀は茶の湯も俳諧も狂歌も流行します。それらはグループで作るもの。ひとり書斎で行う、個人芸術ではありません。地域の人たちが集まり、師匠という審判がいて、ゆるやかに階級や身分、宗門も超えて集まります。
熊倉先生

熊倉先生

そこで家元制というものが生まれます。18世紀中頃に確立しますが、家元がいて、その美意識に共鳴する弟子が集まり、共通する道具が欲しくなって「好み物」ができる。それを作る作家集団ができる。そういう組織が享保くらいにできてきます。
キャンベル先生

キャンベル先生

享保、つまり八代将軍吉宗の時代、文教政策が豊かになって、農村でも文字が読めるようになって全国的に識字率が上がり、読書熱が生まれる。それが商業出版を刺激して、書物が貸本屋よって津々浦々に運ばれ、大都市に出版元が生まれる。やがてその村に師範がいなくても独学でできるようになり、入門しなくても教則本が生まれて、いわゆる一人稽古ができるようになります。
小堀先生

小堀先生

茶の湯も18世紀以降には広がりを持ってきます。俳諧の「季語」というのはとてもわかりやすい。利休は季節について「夏は涼しく冬暖かに」と言いますが、これは抽象的でわかりにくいのです。でも季語は、どの季節か明確に示してくれますね。江戸後半は一般に茶の湯が広がっていく中で、わかりやすさがとても重要になって、茶の湯も文章化され、テキストもたくさん出てくるわけですね。

人と人が出会う

熊倉先生

熊倉先生

いま社会全体が大きな曲がり角にきていて、伝統文化の危機の時代です。茶の湯がどういうあり方をすればもっと魅力的になるのか、考えなければなりません。
小堀先生

小堀先生

今まではお茶会やお稽古、または美術鑑賞が茶道というイメージでした。これらは今後も重要な魅力で、稽古はしないでいい、ということはありません。しかしお茶会、稽古はコロナによってこの2年の間、それ以前の形のままでは出来なくなりました。だからこそ、何のためにお茶を稽古するのか、どうしたらお茶を楽しめるのか、と考える時期にきています。スマホの中で人とつながり、スマホを見ないと生きていかれないくらいに人間の個々の力が弱くなってしまいました。人間をもう一度磨くためには、人と人が出会って、話し、茶の湯であれば掛け物やお茶碗など物を介しながらお互いの心を重ねていく。そういう形で、茶の湯は本来の姿に戻るのかもしれません。人間関係の希薄さを、お茶を一服頂くことで埋めることができるようになっていくのではないかと思います。
キャンベル先生

キャンベル先生

英語のホスピタリティというのは、人の家に招かれて玄関から足を踏み入れたところから始まりますが、このホスピタリティと茶席の「おもてなし」は異なるように感じます。茶の湯では、待合などで「待っている時間」があって、主人が整えている気配を感じながら露地の景色や空を眺めたりして、招かれるとにじり口に向かっていく。あの時間は誰もいないのにおもてなしを感じます。あの感覚を日常的に取り戻し、絆を確認することができたらいいなと思います。
小堀先生

小堀先生

お客さまがお客さまだけではいない、というのが茶の湯の独特のところです。主客が入れ替わるがごとく客が亭主をもてなしているような時間もあり、茶事であれば3、4時間の間に何回もそのようなことが行われます。また、正客は最初には床の間のあるところが上座として通されますが、お茶が点つ場面になると、床の間よりもお茶の出されるところが正客の位置になります。そういう風にいろいろなものが変化していく。そこがおもてなしとホスピタリティとの違いかと思います。
熊倉先生

熊倉先生

亭主の趣向に客が気づいていることが、亭主を喜ばせたりします。つまり「亭主と客がもてなし合う」、それが日本のおもてなしかもしれません。劇場も同じことが言えます。本来、日本では舞台と客は一体でした。「主客同時」というものが茶の湯の楽しみの一つです。
キャンベル先生

キャンベル先生

舞台と客席が明確に分かれているのが西洋の舞台です。日本では明治初期の新富座が初めてですが、常に大向うからかけ声が聞こえ、とてもインタラクティブ。双方向性の強いのが日本の芸能の源流だと思います。茶の湯の空間にも美術もあり文学もあり、五感を満たす刺激もあり、静かな時間があり、主客が味わう。古来の芸能が息づいていると思います。
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締める、結ぶ

熊倉先生

熊倉先生

つくづく思うのは、私たちの生活にハレとケがなくなった、ということです。晴れがましい場所と日常にあまり差がなくなり、ハレというところに日常が入り込んできています。いわゆる結界、けじめ、仕切りがなくなったように思いますが、茶の湯はそれをよく残しているような気がします。
小堀先生

小堀先生

日本の言葉に「しめる」「結ぶ」というものがあります。着物でも帯をギュッとしめたり、お相撲さんがまわしをしめたりする。そうすると身体的に刺激があってピッとなる。茶の湯でもにじり口をくぐるかくぐらないか、その前段階の露地のしおり戸を開けて内露地に入るかどうかで空気感が全然違う。そういうところが茶の湯の醍醐味と言えるでしょう。
熊倉先生

熊倉先生

しめるというのは結局「結界」ということであって、注連縄という言葉があるとおり、浄めがあってから入ることができる、というものです。浄めということが日常の一つの区切りになっているのですが、そういう部分がいま消えつつあるのではないでしょうか。このことを次世代に伝えていく上で茶の湯が有効だと思います。
キャンベル先生

キャンベル先生

どういう風にそれを日常に取り込むか。人口が減っていき、空間的なゆとりが生まれますし、在宅勤務などもあって現役世代は自分の時間を得ることもできつつあり、戦後の世代とは異なる生活感覚があると思います。どういう風に突破口を作っていけるのか。茶の湯が日常に入っていく入口を作ってほしいですね。
熊倉先生

熊倉先生

これから実際に茶の湯を指導し担当していく立場として、家元は何を一番の軸に置きたいとお考えですか。
小堀先生

小堀先生

間合い、呼吸を伝えたいですね。それには、モニターの枠の中を破って、こちらに出て来てもらいたいと思います。
熊倉先生

熊倉先生

いまは破壊の季節と言えます。壊すことによって新しい文化が生まれてくる時代なのかもしれません。古い茶の湯が壊れて、また新しい茶の湯が生まれるでしょう。日常生活では掴みきれない、日本文化の中核の部分を、茶の湯を通して次の世代に残していけたらと思います。
今日はありがとうございました。
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※写真はイメージです。