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2024年大河ドラマは「光る君へ」。
日本最古の長編小説『源氏物語』を書いた 紫式部 が主人公です。
彼女の文筆ライフも、物語世界も、主に京都を舞台にくりひろげられました。
四季折々の美しさや、華やかな宮廷行事を描きつつも、
人間の逃れようのない哀しみを物語に織り込まずにはいられなかった紫式部。
そんな彼女といっしょに、
千年前の王朝世界にひたる旅に出かけませんか。
もっと面白くなる!4つの視点を更新しました
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と問われると、平安時代が生み出した偉大な女性作家で、日本最古の長編小説『源氏物語』を著した、というのが教科書的な答えですが、彼女が残した『紫式部日記』から浮かび上がってくるのは…… すこし内向的で人をよく観察し、頭はとてもキレるけれど嫌われないようにボケたふりをして、そうは言っても同じ知性派はちょっと許せなくて舌鋒するどく批判してみたり、ふいに自分なんて価値のない人間だ、と落ち込んだりする人。そして、世間に交わるストレスにさらされるとき、【物語(フィクション)】にこそ癒やされる人。なんだか私たちのすぐ近くにいそうな女性です。
「紫式部」は女房名で、本名も生没年も知られていません。父は藤原為時という漢学者・文人で、おそらく家には書物が積まれ、男兄弟に漢籍を教える声が響いていたことでしょう。女性は当時「一」の字すら書けない風を装うのが粋でしたから、兄弟より先に紫式部が漢籍を覚えて暗誦すると、父は「おまえが男だったらなあ」とため息をつくのでした。
やがて紫式部は当時としては遅い20代半ばで結婚します。お相手は藤原宣孝で、のちに大弐三位と呼ばれる女子を産みますが、宣孝はほどなく疫病で亡くなってしまいます。失意の紫式部をなぐさめたのは物語を読むこと、物語について友だちと手紙で意見を交わすこと。そしておそらく自らも筆を執り、『源氏物語』とおぼしき物語が生まれていったようです。
どうやらこれまでの【物語】とは違うらしいぞ──
そんな噂が流れ、それまでは女性や子どもの娯楽としてやや軽んじられてきた物語に、男たちも夢中になりだします。名声は広がり、娘の中宮彰子に仕える優秀な女房を探していた藤原道長の耳にも入ったようです。やがて紫式部は彰子サロンに出仕し、そこでも物語は書き継がれていきました。
「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」──ちょっと失礼、この辺に若紫の姫君はいませんか?
紫式部にそう問いかけたのは当時最高の文化人だった藤原公任。若紫とは『源氏物語』の女性ヒロインの名前で、『紫式部日記』が伝えるこのちょっとしたからかいの言葉は、この記事の記載年である「寛弘5年(1008)」に少なくとも『源氏物語』の初めの方の「若紫」の巻が存在していたことを証明しています。
この言葉が発せられてから約千年。今なお、私たちは『源氏物語』を読み、あこがれ、千年前の風景、千年前の心に触れることができるのです。なんて幸せ。
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現在の廬山寺のある一帯は紫式部の曾祖父・藤原兼輔の邸宅があった場所で、鴨川沿いの風流な住まいだったことから兼輔は「堤中納言」と呼ばれていました。邸宅は伝領されて為時・紫式部親子もここに住んだと考えられ、『源氏物語』で光源氏と空蝉が出会う紀伊守邸もこのあたりに設定されています。紫式部の邸宅跡として廬山寺の境内には「源氏庭」が整備され、紫式部の面影をにおわす紫の桔梗が初夏から秋にかけて花を咲かせます。
公式サイトをみる『紫式部日記』の冒頭は、道長の邸宅・土御門第で彰子がまさに出産を迎えようとするシーンから始まります。のちの後一条天皇の誕生という盛儀を、おそらく紫式部は道長の命令で執筆したようです。三人の娘を天皇の后にすえた道長はこの世の栄華を謳歌し、この土御門第で「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」とほろ酔いで詠んでいます。現在は駒札が立つばかりですが、ここから見上げる望月(満月)は千年前と変わりません。
公式サイトをみる『石山寺縁起絵巻』などによると、彰子から物語制作を命じられた紫式部は石山寺に7日間参籠し、琵琶湖の湖面に月が映るのを見て物語の着想を得たと伝わります。平安時代は現世利益を叶える観音信仰が盛んになったことから、如意輪観世音菩薩を本尊とする石山寺に参詣する「石山詣」がブームとなりました。藤原道綱母の『蜻蛉日記』や和泉式部の『和泉式部日記』など、多くの王朝文学にその様子が描かれます。
公式サイトをみる紫式部はいつどのように世を去ったのか。『小右記』によれば寛仁3年(1019)に彰子と藤原実資の取次役として姿を表した女房が紫式部と考えられますが、明確な記録がなく、その最期はわかりません。京都の堀川北大路を50メートルほど南下したところに紫式部の墓と伝わる小さな墳丘があります。室町時代の『河海抄』にはすでにこのあたりに紫式部の墓があったと記されているので、それが奇跡的に残されているのかもしれません。
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──この世は私の望むまま。満月のようにすべて満ちたりて、何一つ欠けているものなどない……
よく知られた藤原道長の和歌です。三人の娘を三人の天皇の后にすえ、栄華の絶頂期に詠まれたこの歌のせいか、道長といえば血縁を利用して専制政治をした人……そんなイメージがあるのではないでしょうか。
ところが近年の研究から見えてくる道長は、そんな「暗黒卿」ではありません。きちんと合議によって政治を行っており、王朝文化を華開かせた立役者でもあります。ちなみに「この世をば」の歌も、宴の酔いに任せて詠んだものがたまたま公卿の日記に残されただけで、「この世」は「この夜(よ)」で、「月はキレイで酒もうまい、今夜は最高」と詠んでいる程度、という説もあります。
当時、政治の実権を握っていた藤原兼家の「三男」として生まれた道長は、本来は氏長者(藤原氏の最高位)になるはずはありませんでした。ところが長男の道隆がアルコール依存症からくる糖尿病で亡くなったと⾔われており、その跡をついだ次男の道兼も疫病に倒れます。
兼家の孫でもある一条天皇は悩みました。摂関家として政治を委ねるべきは道隆の子である伊周(これちか)か、兼家三男の道長か。このとき、一条天皇の母であり道長の姉である詮子がぐいぐいと道長を推します。なんと天皇の寝所まで押しかけて泣きながら説得したといいます(『大鏡』)。
大流行した疫病にも罹らず、姉の強い「推し」を受けた道長は、たいへんなラッキーボーイでした。
道長は娘の彰子を一条天皇の后にしようとしますが、天皇は道隆の娘・定子に深い愛情を注いでいました。しかも彰子はまだ12歳、なんとか天皇の気を引くために彰子サロンの「付加価値」を高めようとします。貴重な書籍、オシャレな調度品、そして優秀な女房たち──
紫式部もインテリ担当女房としてスカウトされ、物語作家でありながら彰子に漢籍をレクチャーする家庭教師としても活躍するのです。
そんな彰子サロンの様子を描いた『紫式部日記』には、人間らしい道長が描かれています。孫(のちの後一条天皇)におしっこをかけられてニコニコしたり、酔っ払った道長に怒った妻をあわてて追いかけたり……。なかでも注目されるのは、彰子を中心に行われた「冊子づくり」の場面。道長が上等な紙や筆、墨を提供したことが記されるため、「冊子」つまり『源氏物語』の制作には道長の強力なバックアップがあったことがわかります。
たしかに権力は道長の手の内にありました。しかしその力は宮廷文学や仏教美術の発展にも注がれたのです。腹黒い権力者ではなく、王朝文化のパトロン、それが新しい道長像かもしれません。
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阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを説く浄土信仰が大ブームとなり、道長も自邸の⼟御⾨第の東に無量寿院(のちに法成寺)を建立し、九段階の往生になぞらえた九体阿弥陀を安置しました。当時たくさん造立された九体阿弥陀の像や堂宇は次第に失われ、平安時代の姿のまま堂宇とともに現存するのは木津川市の浄瑠璃寺の九体阿弥陀仏のみです。5年かけた保存修理が2023年3月に完了しました。
Google Maps中宮彰子の女房・和泉式部は天才歌人として知られ、恋のうわさが絶えないことから道長に「うかれ女(め)」とからかわれたことも。その和泉式部が出家したのち、道⻑が彰⼦の勧めで法成寺の境内にあった東北院の片隅に「東北院誠心院」を建立し、尼となった和泉式部を住職にしたと伝わります。誠心院は豊臣秀吉の命によって現在地に移り、本堂には和泉式部像や藤原道長像が祀られます。
公式サイトをみる賀茂神社(上賀茂・下鴨神社の総称)は王城鎮護の神として重視され、道長の時代には「まつり」といえば賀茂祭を指すほど、その祭祀は盛大に行われました。道長もその見物を楽しんでいます。賀茂神社への参詣もさかんに行われ、紫式部は上賀茂神社境内の片岡社で歌を詠んでいます。「ほととぎす声まつほどは片岡のもりのしづくに立ちやぬれまし」(『新古今和歌集』)
公式サイトをみる道長の曾祖父・藤原忠平が創建した法性寺が天徳2年(958)に焼亡した際、道長は再建に力を尽くし、境内に五大明王を安置する五大堂を建立しました。法性寺は鎌倉時代には衰微し、その寺域に東福寺が建立されます。現在の東福寺塔頭の同聚院に祀られる本尊・不動明王は道長が建立した五大堂の中尊であり、仏師・定朝の父である康尚の作といわれます。
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「どうか、源氏の物語を一の巻からすべて読めますように……」
いつもそう祈り続けていたのは、『更級日記』を記した菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)。紫式部より少しあとの時代を生きたこの文学少女は、うわさで聞く『源氏物語』を読みたくてたまりません。当時は一字一字を写す「写本」しかないので、54帖もある『源氏物語』はそうそう手に入りませんでした。ところがあるとき、「をばなる人」が『源氏物語』全巻をプレゼントしてくれたのです。
「胸はどきどきワクワク。これまではとびとびに読んでよくわからなかった物語を、最初の巻からまるっと、だれにも邪魔されず几帳の内で寝転んで読む。この快楽は后の位だってかなわない。昼はずっと、夜は目が開いている限り、灯火を近くに寄せて読むこと以外なぁんにもしない……」(『更級日記』)
これほど平安びとを熱中させた『源氏物語』とはどんなお話なのでしょう。
物語は主人公の光源氏の出生から始まります。父の桐壺帝が心から愛した女性・桐壺更衣は天皇の后妃のなかでは身分が低く、後宮女性たちのねたみを一身に受けていました。珠のような美しい男児を生み落とすと心身弱り、命を落とします。残された男児──光源氏は、天皇の子とはいえ母を失って後見もいない、とても不安定な存在でした。
ところがこの皇子は鬼神さえもほんわりさせてしまうような魅力をそなえていました。成長すると数々の女性と恋に落ち、理想的な女性「紫の上」と結ばれます。めでたしめでたし……これだけなら、『源氏物語』はベストセラーにはならなかったはず。作者・紫式部は超人的とも言える主人公・光源氏に「心の闇」を授けるのです。
まずは父・桐壺帝の后である藤壺の女御との禁忌の恋。二人のあいだに生まれた「不義の子」は天皇の位にまで就き、光源氏は罪を背負いつづけます。
または政敵である右大臣家の娘と恋に落ち、須磨へと流れたこともありました。
晩年には、心ならずも妻とした「女三宮」が若き柏木の中将と密通し、光源氏自身も父・桐壺帝のように「不義の子」を抱くことになるのです。
多くの伏線がはりめぐらされ、人々は息をのんで物語を読み進めました。これまで子どもや女性の「なぐさみもの」と言われていた物語が、大きく飛躍したのです。
また、紫式部は作品を通して、当時の女性たちの苦しみと向き合い続けました。
たとえば、光源氏の正妻・紫の上に子どもは産まれず、一方、愛人である明石の君は女の子を生みます。光源氏はその子を天皇の后とするために、身分の低い明石の君から女の子を引き離し、紫の上の養女としました。
紫の上がそのまま女児を産んで天皇に入内すれば、すんなりと光源氏の栄華を語ることができるのに、紫式部がそういうプロットにしなかったのは、彼女が見つめた「思い通りにいかない現実」を、このフィクションに託したためでしょう。
他にも、男性の支えがなければ零落するよりない女性たちが光源氏との関わりで多く描き出されます。
紫式部は唐の白楽天の『白氏文集』を愛読し、『源氏物語』にはその影響がいくつも見られます。『白氏文集』は重税などの社会問題を扱う詩も含み、紫式部はその部分も物語に引用しました。彼女は社会の闇を見つめる目を持ち、それが『源氏物語』に深みと厚みをもたせていることはまちがいありません。
王朝の美をたっぷりと伝える『源氏物語』をみやびな恋物語として楽しみつつも、紫式部の「叫び」のようなものも感じてみてください。
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光源氏18歳の春、瘧病(わらわやみ)の祈祷のために「北山のなにがし寺」を訪れ、生涯の伴侶となる紫の上と出会います。この北山の寺は現在の鞍馬寺がモデルという説があります。当時は毘沙門天、千手観音の霊場として信仰を集めており、平安女性たちもはるばる参詣しました。曲がりくねる上り坂の参道は九十九折(つづらおり)と呼ばれ、清少納言は『枕草子』で「近うて遠きもの」の例に挙げています。
公式サイトをみる若き日の光源氏の恋人・六条御息所は嫉妬から生き霊となり、光源氏の正妻・葵の上をとり殺します。自責の念にかられる御息所は伊勢の神に仕える「斎宮」に任じられた娘とともに伊勢下向を決断し、嵯峨の野宮で潔斎生活を送ります。現在の野宮神社はその旧跡と伝わり、物語に記される「黒木鳥居(くろきのとりい)」や「小柴垣」が再現されています。光源氏が秋の野宮に御息所を訪ねる場面は、物語屈指の美しさです。
公式サイトをみる右大臣家との対立によって須磨にみずから流れていった光源氏は、明石の上と出会い、女児をもうけます。やがて都に呼び寄せ、大堰川のほとりに住まわせました。折しもその近くに光源氏は「御堂」を建立しますが、「大覚寺の南」とあることから清凉寺が想定されています。光源氏のモデルと言われる源融(みなもとのとおる)の営んだ棲霞観(せいかかん)という別荘があったところで、死後に棲霞寺となり、境内の阿弥陀堂がその名残と伝わります。
公式サイトをみる物語後半、光源氏の若き日の恋人・夕顔の遺児である玉鬘について語られます。不遇な少女時代から一転、光源氏に見出されて冷泉帝への入内が取り沙汰されると玉鬘は戸惑いますが、大原野神社に行幸する冷泉帝を目にしてその美しさに惹かれます。大原野神社は長岡京遷都の際に藤原氏の氏神である奈良春日社の神を勧請した神社で、藤原氏出身の后妃が参拝し、中宮彰子の参詣には紫式部ら女房も従いました。
公式サイトをみる滋賀・
石山寺
京都・
宇治
石山寺 明王院
紫式部ゆかりの地のひとつ、石山寺。境内の明王院に「大河ドラマ館」がオープンし、主人公・まひろが身に着けていた番組衣装や小道具、撮影の裏側を知ることができる企画パネルなどが展示されます。大河ドラマのテーマを深掘りした大津でしか見られない映像を4Kシアターで上映。大河ドラマの世界にたっぷり浸ってみませんか。隣接の世尊院では「源氏物語 恋するもののあはれ展」を同時開催。あわせて訪ねましょう。
※石山寺とのセット券もあります。
『源氏物語』54帖のうち、最後の10帖の舞台となる宇治。紫式部とも親交が深い藤原氏が築いた歴史あるまちとしても知られます。宇治川のほとりに位置するお茶と宇治のまち交流館「茶づな」では、約1年にわたり「大河ドラマ展」を開催。大河ドラマの世界観とともに、宇治の歴史・文化も楽しめる展示となっています。ゆかりの地に訪れたら、「大河ドラマ展」へお立ち寄りください。
※茶づなミュージアムや源氏物語ミュージアムとのセット券もあります
EX旅先予約
平安絵巻をめぐる切り絵御朱印
紫式部の邸宅址と伝わる廬山寺の拝観と、「そうだ 京都、行こう。」がコラボしたオリジナルデザインの切り絵御朱印を授与します。在りし日の紫式部の姿と、廬山寺の「源氏の庭」をモチーフにした切り絵は、京都出身の切り絵作家・横山夢さんがデザインしました。
EX旅先予約
源氏物語誕生の地
京阪沿線から「光る君へ」大河ドラマ館を巡るお得なきっぷです。京阪電車・京阪バス・引換券(大河ドラマ館の入館券と石山寺入山券)がセットになっています。EXサービス会員様限定で京阪電車オリジナルノベルティ付き!
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