2025年秋の「そうだ 京都、行こう。」キャンペーンの舞台は東福寺です。真っ赤に染まる錦秋の光景は誰もが知るところですが、昭和の名作庭家・重森三玲が手掛けたお庭も見逃せません。今回、重森三玲のお孫さんでご自身も作庭家の千靑さん(以下、重森先生)と本坊や塔頭をめぐり、お庭の見どころや知られざるエピソードをお聞きしました。9月、10月、11月の3回にわたる短期連載で、その模様をお届けします♪
\塔頭について詳しく知りたい方はこちら/
雪舟が作ったお庭とは
山門
記念すべき第1回にご紹介するのは芬陀院(ふんだいん)。元亨年間(1321~1324)に時の関白であった一條内経によって創建されて以来、一條家の菩提寺として長い歴史を紡いできた塔頭寺院です。室町時代に活躍した画僧の雪舟が手掛けたと伝わるお庭を有し、「雪舟寺」の通称名でも親しまれています。
左:重森千靑さん、右:芬陀院住職 爾法孝さん
お寺を訪ねると、ご住職の爾法孝(その ほうこう)さんが出迎えてくださいました。重森先生とも旧知の間柄で、この日も和やかにお庭談義がスタート。
方丈南庭「鶴亀の庭」を雪舟が作ったと伝わります
まず気になったのは雪舟がお庭を作ったとされる経緯です。
かつて東福寺には画聖と崇められた明兆がいました。雪舟にとっても明兆の存在は偉大で、絵の勉強のために東福寺を訪れることもしばしば。その際に宿坊にしていたのが芬陀院だったそうです。
「あるとき、当時の一條家の当主が雪舟に亀の絵を所望すると、絵ではなく亀の形をした石組からなる庭園を作り上げたといわれています」とご住職。
重森三玲との出会い、蘇る名庭
雪舟の作ったお庭ならば、いつの時代もさぞや有名だったに違いないと思いきや、江戸時代に二度の火災に遭い、次第に荒廃。それを見事に復興したのが重森三玲でした。
「三玲さんは昭和11年(1936)から約3年かけて全国の庭園調査をしています。東福寺との縁はその頃からで、芬陀院の荒廃ぶりは実測で痛感していたようです」と重森先生。
「亀島の頂にある中心石は、別の場所に置かれていたのを三玲さんが発見して、据えなおしたんですよ」と、重森先生から驚きのエピソードをお聞きしました。重森三玲は島根県や山口県にある雪舟作と伝わる庭園の実測調査も行っていたため、芬陀院の修復においてもその知見を存分にいかしたそうです。
ちなみに、鶴と亀をあらわした石組は日本庭園にしばしば登場します。芬陀院の亀島は特に形が分かりやすいため、日本庭園をイチから学びたいという方は、ぜひご覧になってください。
雪舟のお庭に呼応する、重森三玲の作庭
方丈の東側には重森三玲が新たに作庭したお庭もあります。
「鶴亀の庭の修復時に芬陀院のサツキに見惚れた三玲さんが、同時期に作庭していた東福寺 本坊庭園の北庭にサツキを移植し、そのお礼に芬陀院に新しいお庭を作ってくださったという話を聞いたことがあります」とご住職はおっしゃいます。
昭和14年(1939)、重森三玲は東福寺本坊と芬陀院、光明院にお庭を作っていました。「こっちに置いたら面白いかもしれない、といった具合に、同時進行だからこそ新しいアイデアが生まれたのかもしれませんね」と重森先生。活気に満ちた当時の状況が目に浮かぶようです。
雪舟の作品に呼応するように、方丈東側に作られたのも「鶴亀の庭」でした。南庭と違い、一目で鶴、亀と判断するのは難しいですが、重森先生によると南庭との調和を図るため、室町期の庭を意識した造りになっているそうです。
3羽の鶴をイメージした石組
「どこが鶴の羽にあたるんだろう…」と眺めていると、重森先生が「全体で一羽ではなく、三羽に見立ててみてください。左と中央の2羽は地上で羽を休め、右の1羽は今まさに空から降り立つような気配が漂います」とアドバイス。“見立てる”という日本文化の奥深さに、感性が刺激されます。
お庭の見方が分かると、新しい世界が広がります。一方で、何も考えずにじっくり眺めるからこそ、光のうつろいに美しさを感じたり、吹き抜ける風に癒されたりすることも。静かな時間が流れる芬陀院は、自分のスタイルでお庭と向き合える素敵なお寺です。
次回は本坊庭園を訪ねます。10月22日(水)公開予定ですので、お楽しみに!
【拝観時間】9:00~16:30(冬季は16:00)
【拝観料】500円
【アクセス】JR奈良線「東福寺駅」から徒歩約10分 Google map
【公式ホームページ】https://funda-in.com/
【公式Instagram】https://www.instagram.com/sesshuji_kyoto/
※掲載内容は2025年9月29日時点の情報です。最新情報は掲載先へご確認ください。