(左から)山下裕二教授/橋本麻里さん
京博「国宝」展セミナー 4
2017年10月3日(火)から11月26日(日)まで京都国立博物館で開催される特別展覧会「国宝」(以下、「国宝」展)。120周年を迎える京都国立博物館で、実に41年ぶりに、満を持して開催される「国宝」展について、山下裕二先生(明治学院大学教授、美術史家)と橋本麻里さん(美術ライター)に、縦横無尽に語っていただきました。今回は第2部として行われた山下先生と橋本さんのトークセッション、後半部分をお届けします。
⇒『京博「国宝」展セミナー3(第2部トークセッション前半)』はこちらから
※本稿は2017年9月17日(日)に、毎日ホール(東京)で開催されたセミナーの抄録です。
都落ち雪舟がなぜトップクラスの絵師になれたか
橋本 雪舟もまた、如拙、周文らと同様、相国寺の画僧でした。ところが応仁の乱勃発の10年以上前に京を離れて、山口県の守護大名、大内氏の下へ身を寄せてしまいます。
山下 要するに雪舟は、京都で出世できなかった人なんです。ある意味、都落ちではあるんですが、大内氏は西中国地方から北部九州にも進出、全盛期には7カ国守護を兼ね、当時の主要な貿易港である博多を押さえていました。さらに遣明使を介した勘合貿易にも食い込み、遣明船を仕立てて中国へ送り出していた、雪舟はその船に乗ることができたわけです。
橋本 お坊さんは何人も中国へ渡っていますが、絵師として本場の土を踏んだのは雪舟が初めてですね。
山下 厳密には鎌倉時代後期に、黙庵という画僧が行ってるんだけど、向こうでそのまま亡くなってしまい。日本へは戻れませんでした。そういう意味で雪舟は、現代で言えば宇宙飛行士のように、「オレは本場中国へ行ったんだぜ」という勲章を売りにして、生涯食べていけた幸運な人なんです。国宝にはなっていませんが、雪舟の自画像を見ると、中国で買ってきたお坊さん用の帽子を被っている。あれは20世紀における「パリ帰り」オヤジのベレー帽と同じ「記号」です。あるいは帰国後、頻繁に書き入れられるようになった、「四明天童題一座」という作品の落款も同様でしょう。「パリなんとか大学首席卒業」みたいなメンタリティで、無邪気に自分を誇るんです。僕は雪舟のそういうありようが好きですけどね(笑)。
「描きたかったから描いた」──雪舟の真骨頂“逸脱”
山下 国宝展にも出展されるこの《山水図》は、雪舟最晩年の作品です。この絵を見て、「雪舟って変な人だなあ」と思えた時、雪舟のことを理解できた気がしました。
国宝 山水図 雪舟筆 以参周省・了庵桂悟賛 (右)部分
室町時代 16世紀 【I期~10/22】
橋本 一般の観客からの人気もあるし、アカデミアの評価も高い。でも雪舟の良さを本当の意味で理解できているのは、日本中で3人くらい、とよくおっしゃっていますね。
山下 今でもそう思ってます(笑)。だいたいこの《山水図》、最遠景の山をシルエット風に描くのは、空気遠近法的に適切だとしても、右手前、斜め45度の山を真っ黒けに塗りつぶしてしまうなんて、意味がわからないでしょ。これは要するに「ただ塗りたかった」から、そうしているだけ。ここを黒くしたい、こちらは白く抜きたい──ある意味、抽象絵画と同じなんです。かと思うと、一番手前に変な木を描いている。これも「描きたかったから描いた」だけ。雪舟はこういうわけのわからないこと、逸脱が真骨頂の人で、だからこそ面白いんです。その逸脱の面白さを理解するためには、やはりスタンダードな価値観と比べなければなりません。そのためにも、ぜひ如拙や周文を見ておいてほしいのです。
橋本 ちょっと比べてみましょう。伝周文《竹斎読書図》では、モチーフが端に寄っていますが、雪舟《山水図》だと中心軸が通っています。
国宝 竹斎読書図 伝周文筆 竺雲等連等六僧賛 (右)部分
室町時代[序]文安4年(1447) 東京国立博物館 【III期・IV期】
山下 伝周文の方、「辺角の景」といって、対角線の片方にモチーフを寄せています。全景を描ききらず、暗示的な空間を大きく取った山水画の構図法で、それによって自然の広大な景観を描き出せると考えらていました。
橋本 もうひとつ、《秋冬山水図》の左側、 「冬景図」 です。先ほどの講演(第1部後半)で、実物と接することの意義として、スケール感を実感できること、というお話をされていましたが、この作品も、画像で見ている時に想像するものと、まったくスケール感が違う、といえるのではないでしょうか。
国宝 秋冬山水図 雪舟筆
室町時代 15世紀 東京国立博物館 【I期・II期】
山下 本当に小さいです。これも手前に墨の汚れみたいな黒色があるでしょう。これが雪舟の筆クセです。そして天に向かって伸びていく1本線は、画面上部の右半分を占める断崖の輪郭。なんだけど、それ以上に、画面のこの位置に、どうしても垂直線を引きたかった、という線です(笑)。
《天橋立図》は、「下書き」だった!?
橋本 そしてこちらもファンの多い、《天橋立図》です。
国宝 天橋立図 雪舟筆
室町時代 16世紀 京都国立博物館 【I期・II期】
山下 この絵だって変なんです。手前の山を最遠景のシルエット調で描いていますが、じゃあ絵師の視点はどこに置かれているんだ、という話になる。でも実際に、これくらいの角度で天橋立が見えるのは、上空900メートルくらいから。これは2002年に京都国立博物館で開催された「雪舟展」のとき、毎日新聞社のヘリコプターに乗せてもらって、自分の目で確認しました。その手前に山がないわけではないんですが、相対的な位置関係としては、ここには描かれないはずです。でも画面手前に山並みがあることで、フレームの役割を果たし、画面が安定する。そういうことを説明していかないと、この絵の面白さはなかなか伝わらないんです。
橋本 ここまでお見せしてきた山水図が、基本的にどこともしれない隠逸の理想郷、「胸中の山水」であるのに対して、《天橋立図》については、中世で初めて、実際に存在する景色を描いた実景図であるといわれますね。
山下 そう、一面では非常に正確なところもあるんです。画面右手中央に描かれている籠神社は、山陰地方で最高の社格となる古社ですし、画面左寄り、橋立の先に描かれた智恩寺のお地蔵さんもきちんと2体描かれています。同じく智恩寺の多宝塔もありますね。これは1502年に建てられたものだとわかっていますから、雪舟がこれを描いた年代は80代、最晩年近くだろうと推測できます。
国宝 天橋立図 雪舟筆 部分
室町時代 16世紀 京都国立博物館 【I期・II期】
もうひとつ、多宝塔には朱が塗られており──これは実物を見ないとわからないんだけど──ちょうど絵のど真ん中、絵を折りたたんだら線対称の位置になるあたりに、ぽつんと朱が付いている。これは多宝塔に塗った朱が乾く前に、雪舟自身が乱暴に絵を折り畳んだため、色が移ったのだと考えられます。もともとこの絵は、21枚もの小さい紙を貼り継いであって、恐らく現地でスケッチ的に描いたものを元に、あらためて完成作を描こうとしていたようです。だから畳んだ痕跡も残っているわけですが、そんなことを僕や、いま京都国立博物館の学芸部長をされている山本英男さんとで穴が空くほど絵を見て、「ここ、朱が付いてる!」と気づくまで、誰も指摘していなかった。
本当にさまざまなものが描き込まれた、不思議な作品です。籠神社の神域図として見ることもできますが、同時に仏教の寺院も多数含まれた、神と仏がクロスする空間にもなっている。また別の視点から見れば、中国杭州の名勝として知られる西湖を描いた、《西湖図》ともよく似ています。雪舟は実際、西湖に足を運んでいますから、そうした中国の実景図の枠組を当てはめられる日本の風景を探して、天橋立に行きついたのかもしれません。
“本場帰りおじさん”雪舟の人間くささとスケール感
橋本 同じ山水図でも、ずいぶん雰囲気の異なるのが、《破墨山水図》です。この作品は見たまま、抽象画ですね。
国宝 破墨山水図 雪舟筆 雪舟自序・月翁周鏡等六僧賛 (中)、(右)部分
室町時代 明応4年(1495) 東京国立博物館 【I期~10/22】
山下 牧谿と共に人気のあった、玉澗という画僧のスタイルですね。スキッとしたいい絵だと思いますが、国宝に指定された理由の8割は、絵の上に記された、雪舟自筆の賛にあります。この作品はそもそも、雪舟が弟子の如水宗淵に贈ったもの。はるばる鎌倉から山口まで雪舟の下へ修行に来た人で、その弟子が帰郷するというので、師自ら「宗淵くんは頑張った」って長文を書いていたはずなんですが、途中から雪舟本人の自慢話になってしまって、「余、かつて大宋国に入り(余曽入大宋国)」なんてことが書いてある。「入」という字を見て下さい、明らかにここで墨継ぎをして、極端に大きく、濃く書いてあるでしょう。「オレは中国に行ったぜ!」という身振りがもう、どうしようもなくベレー帽おじさんなんです(笑)。第一義には弟子への卒業証書であり、京都の高僧たちへの紹介状でもあって、宗淵は指示通り雪舟と旧知のお坊さんから、追加で賛をもらっています。美術史的には雪舟の履歴を考える上で重要な資料であり、絵師の自筆のテキストという意味でも貴重なものです。
橋本 そして雪舟畢生の大作《四季山水図巻(山水長巻)》です。
国宝 四季山水図巻(山水長巻) 雪舟筆
室町時代 文明18年(1486) 山口・毛利博物館 【10/3~12 前半部分、10/13~22 後半部分】
山下 これもスケール感を知ってほしいですね。縦が40センチ近くあり、長さは約16メートルと、日本の巻物としては異例にサイズが大きい。それに色が綺麗なんです。水面に刷かれた青色が目に鮮やかで、僕自身、これを最初に見た時の驚きを今でも忘れられません。
もうひとつの流れ──色彩豊かな「やまと絵」の優品たち
橋本 ここまで数多くの中国の絵画や、中国に影響を受けた日本人の作品を紹介してきましたが、もちろんそれだけだったわけではありません。この時代には日本的な着色画である「やまと絵」の優品も、多数描かれました。国宝展には出てきませんが、山下先生が将来の国宝候補の1番手と考えておられるのが、金剛寺に伝わる《日月山水図屛風》(室町時代、重要文化財)です。
重文 日月山水図屛風 大阪・金剛寺
山下 ひと昔前は室町時代というと、墨一色の世界のように言われていましたが、もう一方に極彩色の世界も存在していました。その代表作がこちらの《日月山水図屛風》(じつげつさんすいずびょうぶ)です。恐らくは1500年前後くらいの作品で、筆者はわかりませんが、誰が描いたかなんて詮索が無意味なほど、素晴らしい作品です。色も華やかですし、木々が躍っているような躍動感がある。左隻右隻と合わせて観ると、屛風の中でぐるりと四季が循環しており、ただ春夏秋冬を並列に並べるのとは違う、壮大な宇宙観が表れています。
橋本 室町時代には中国的な水墨画があり、日本的なやまと絵の着色画もありました。そのふたつの流れが合流するところに登場するのが、狩野派の二代目、元信です。残念ながら国宝展には出ず、現在、東京のサントリー美術館で開催されている、「狩野元信展」に出展中ですが、その代表作も未来の国宝候補ですね。
重文 四季花鳥図 狩野元信筆
京都・大仙院
山下 大徳寺大仙院の《四季花鳥図》、京都国立博物館に寄託されている作品で、これも遠くない未来に国宝となるでしょう。元信の特徴である和漢の融合が、まさに実現されています。これもディティールに目を凝らすと面白くて、木の幹に止まった三羽の鳥の足下に、虫が踏みつけられているんです。写真ではわからないと思いますので、どうぞ美術館で実物をご覧になってみて下さい。
応仁の乱とゼネコン「狩野建設」
橋本 応仁の乱で丸焼けになった京都が復興に入ると、寺社や御殿、城郭など、大型の建物が新築されていきます。その内部の何百、何千面という襖絵や壁貼付を描く仕事が容易ならざることは、ご想像がつくのではないでしょうか。均一なクオリティで、効率良く描いていくために、描法を整理し、マニュアルを作り、大勢の訓練された弟子を育て上げた、山下先生曰く「ゼネコン」的な組織づくりをしたことで頭角を現してくるのが、先ほど(第2部トークセッション前半)ご紹介した狩野正信、元信と続く狩野派です。
山下 「狩野建設」ですよね。でもそのおかげで、織田信長や豊臣秀吉らの天下人に気に入られ、さらに徳川幕府の御用絵師へ「お乗り換え」も成功させて、幕末まで400年間、画壇に君臨することができました。
橋本 その基礎を作ったのが、画体を整理した二代目の元信でした。元信の孫に当たるのが、もっとも有名な狩野永徳ですね。今回、大徳寺聚光院の襖絵、《花鳥図襖》が出展されます。安土城や聚楽第、大坂城など、名だたる天下人の城郭を手がけながら、みな戦火で焼失してしまった永徳による障壁画で、唯一現存する作品です。制作年は諸説ありますが、有力視されている元亀2年(1571)だとすれば、永徳29歳の時の作品です。
国宝 花鳥図襖 狩野永徳筆 十六面のうち四面
室町~桃山時代 16世紀 京都・聚光院 【10/24~III期】
山下 室町と桃山の境界に位置する絵です。この面は早春の梅の木を描いたもので、雪解け水で増水した川に、枝がひと筋潜っています。これが「水潜りの梅」。近年ではこうした建築の内部に設置された作品が、作品保護のため、次々レプリカに置き代えられています。技術の進歩も著しく、専門家であっても、一見しただけではわからないほどのクオリティに仕上がっている。こういう障壁画については、空間ごと体験しないとどうしても理解ができないところがあります。レプリカだと馬鹿にせず、本来それがあった空間でものを見てみていただきたいと思います。
等伯と狩野派の大河ドラマと水墨画の日本化
国宝 楓図壁貼付 長谷川等伯筆 六面のうち四面
桃山時代 16世紀 京都・智積院 【I期~10/22】
国宝 桜図壁貼付 長谷川久蔵筆 五面のうち四面
桃山時代 16世紀 京都・智積院 【10/24~III期】
橋本 永徳が梅の巨木なら、そのライバル・長谷川等伯の作品で出展されるのは、《楓図壁貼付》、息子久蔵が手がけた《桜図壁貼付》です。襖のフレームからスケールアウトして、天井を突き破るように上へ上へと伸びていく巨樹のモチーフは、永徳によって完成された、桃山時代の代表的なスタイル。ライバルであっても、その様式は踏襲せざるを得ませんでした。その代わり永徳とは異なる、華やかでフェミニンな雰囲気を作り出しています。
国宝 檜図屏風 狩野永徳筆
東京国立博物館
山下 国宝展には出ませんが、永徳の《檜図屏風》(東京国立博物館蔵、国宝。九州国立博物館での「新・桃山展」に11月14日~26日まで出品される)と《楓図壁貼付》は、構図としてよく似ていますね。秀吉が等伯父子のド派手な感じを好んだのもわかります。《檜図屏風》の方は、永徳が過労死する直前の作品なので、大蛇がのたうち回っているかのよう。この作品を描いた後、永徳は48歳で急逝してしまい、狩野派に激震が走ります。
橋本 等伯は好機到来とほくそ笑んだでしょうね。ところが等伯がいずれ自分以上の絵師に、と期待をかけていた息子の久蔵が、《桜図壁貼付》を描いた直後に亡くなってしまうのです。
山下 ドラマのナレーション風にいうなら、息子を失った悲しみに打ちひしがれた等伯が描いたのが《松林図屏風》だ、というわけです。実際のところはわかりませんが、50代の作であることは間違いないでしょう。これも実物を見なければわからないことがたくさんあります。一カ所だけ墨が垂直に溜まっている場所があるので、立てかけ描きだった可能性も出てきました。
国宝 松林図屏風 長谷川等伯筆 六曲一双
桃山時代 16世紀 東京国立博物館 【III期】
橋本 今年の春、京都国立博物館で開催された「海北友松」展で、友松の特徴として紹介されました。紙を床に水平に置くのではなく、板に貼ったものを立てかけて描く技法ですね。
山下 そして松林の向こうには、うっすらと雪山が描かれています。そうすることで、その奥に入っていくべき空間というものができている。
橋本 《天橋立図》同様、下絵として描かれ、後に屛風に仕立て直されたものだったようですね。松を描く筆の割れやかすれなど、牧谿《観音猿鶴図》の強い影響を感じさせる絵です。ただし行ったこともない、非現実的な中国の風景を描くのではなく、自分が生まれ育った親しみ深い能登半島の風景を、水墨という中国由来の技法で描いている。水墨画の日本化を象徴する作品だといえるでしょう。
国宝 観音猿鶴図 牧谿筆
中国・南宋時代 13世紀 京都・大徳寺 【III期】
今日の第2部は、応仁の乱以前/以後をテーマにさまざまなお話を伺ってきました。中国美術を母胎として育まれた美意識が、咀嚼され、日本の風土に立脚した日本美術としての形を成していく、その流れの一端をご覧いただけたのではないかと思います。
山下 江戸時代に入ると国宝の指定件数はグッと減り、琳派に集中してきますが、これは明らかに少ない。今後さらによい作品が指定されていくことになると思いますが、ぜひ皆さんも、江戸絵画に接する時、ご自分なりに、「次はこれが国宝になるんじゃないかな」と考えながら見ていただけると、より日本美術をお楽しみいただけると思います。
『京博「国宝」展セミナー1(第1部講演前半)』はこちら
『京博「国宝」展セミナー2(第1部講演後半)』はこちら
『京博「国宝」展セミナー3(第2部トークセッション前半)』はこちら
- 橋本 麻里さん(ライター・エディター 永青文庫副館長)
- 新聞、雑誌への寄稿のほか、NHKの美術番組を中心に、日本美術を楽しく、わかりやすく解説。著書に『美術でたどる日本の歴史』全3巻(汐文社)ほか多数。
■開館120周年記念 特別展覧会 国宝
【会期】2017年10月3日(火)~11月26日(日)
I期 10月3日(火)~15日(日)/II期 10月17日(火)~29日(日)/III期 10月31日(火)~11月12日(日)/IV期11月14日(火)~26日(日) ※I~IV期は主な展示替です。一部の作品は上記以外に展示替が行われます。
【開館時間】9:30~18:00(入館は17:30まで)、金曜日・土曜日は~20:00(入館は19:30まで)
【休館日】月曜日 ※10月9日(月・祝)は開館、10日(火)は休館
【料金】一般 1,500円、大学生 1,200円、高校生 900円
【場所】京都国立博物館(平成知新館) 詳細情報はこちら
【公式ホームページ】http://kyoto-kokuhou2017.jp/