今年(2021年)、1200年の大遠忌を迎えた、伝教大師・最澄。日本仏教の礎を築いた偉大な僧について、前回はその足跡を辿りながら、最澄が開いた比叡山 延暦寺をご紹介しました。京都にはそのほかにも最澄にゆかりのあるお寺が各地に点在していて、そのなかから紅葉の美しいお寺をピックアップしてみました。少し早いですが、秋の様子を交えながらお届けします♪
⇒「比叡山 延暦寺 ~1200年遠忌を迎えた伝教大師・最澄の足跡を辿る~」はこちら
⇒「京都 紅葉情報」はこちら
⇒「比叡山 延暦寺 ~1200年遠忌を迎えた伝教大師・最澄の足跡を辿る~」はこちら
⇒「京都 紅葉情報」はこちら
※新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、京都旅行の際は、政府およびお住まいの都道府県と京都府の要請をご確認ください。京都にお越しの際は、マスクの着用・手指のアルコール消毒など、感染拡大防止の徹底にご協力をお願いいたします。日々、状況は変化しておりますので、事前に最新情報をご確認ください。
★空海との縁を感じられるお寺
【乙訓寺】最澄と空海、出会いの地
伝教大師・最澄、そして弘法大師・空海。奈良時代から平安時代にかけて激動の時代を生きた2人の宗教家は、ともに唐に渡り、新しい仏教を日本にもたらしました。同じ遣唐使船の一行に加わった2人ですが、船も立場も別であったこともあり、実際に出会ったのは唐からの帰国後。現在の長岡京市にある乙訓(おとくに)寺が、初対面の舞台となったと伝わります。
最澄よりも1年半ほど後に唐から帰国した空海は、大同4年(809)京都に入り、弘仁2年(811)嵯峨天皇により乙訓寺の別当(統括管理の僧官)に任命されました。その翌年、最澄が空海に会うため、乙訓寺を訪問。最澄は真言の法を請い、空海と法論を交わしたと、記録に遺されているそうです。
⇒乙訓寺のスポット情報はこちら
⇒乙訓寺のスポット情報はこちら
【神護寺】最澄と空海、交流と決別の地。
京都屈指の紅葉名所・神護寺も、最澄と空海が実際にこの地を訪れ、交流の舞台となったお寺です。
神護寺の前身となる「高雄山寺(たかおさんじ)」は、奈良時代の末、桓武天皇の寵臣・和気清麻呂(わけのきよまろ)によって創建されました。平安京遷都にも影響力があったという人物で、清麻呂の死後は、子息である広世(ひろよ、弘世とも)と真綱(まつな)の兄弟が高雄山寺を菩提寺として引き継ぎます。広世兄弟は、最澄に心酔。桓武天皇と最澄の結びつきを強め、入唐以前の最澄を高雄山寺に招き法華経の講会などを行い、その後も最澄の支援を行われました。
神護寺の前身となる「高雄山寺(たかおさんじ)」は、奈良時代の末、桓武天皇の寵臣・和気清麻呂(わけのきよまろ)によって創建されました。平安京遷都にも影響力があったという人物で、清麻呂の死後は、子息である広世(ひろよ、弘世とも)と真綱(まつな)の兄弟が高雄山寺を菩提寺として引き継ぎます。広世兄弟は、最澄に心酔。桓武天皇と最澄の結びつきを強め、入唐以前の最澄を高雄山寺に招き法華経の講会などを行い、その後も最澄の支援を行われました。
最澄が唐から帰国すると、早速お寺に招かれ、延暦24年(805)、日本最初といわれる「灌頂(かんじょう)壇」が開かれます(「灌頂」は、密教の法燈を継承する重要な儀式)。
ところが空海が唐から帰国すると、最澄の灌頂は十分なものでなかったと判明。空海が持ち帰った大量の経典を最澄が借用するなど、2人の密接な交流が始まります。
ところが空海が唐から帰国すると、最澄の灌頂は十分なものでなかったと判明。空海が持ち帰った大量の経典を最澄が借用するなど、2人の密接な交流が始まります。
弘仁3年(812)、経典だけでなく実際の灌頂を受けたいと願った最澄は、高雄山寺にて空海に灌頂を受けます。7つも年若い空海に密教の教義の上では弟子となった最澄ですが、徐々に対立するようになり、弘仁7年(816)頃には決別に至ったといわれています。
最澄と空海の決別をめぐるエピソードは小説や漫画にも数多く取り上げられています。ぜひ来山前に読んでみてはいかがでしょうか♪
⇒神護寺のスポット情報はこちら
⇒「大師堂特別拝観」の詳細はこちら
最澄と空海の決別をめぐるエピソードは小説や漫画にも数多く取り上げられています。ぜひ来山前に読んでみてはいかがでしょうか♪
⇒神護寺のスポット情報はこちら
⇒「大師堂特別拝観」の詳細はこちら
★最澄の時代、比叡山に創建された一坊を起源とするお寺
【三千院】天台声明の聖地とともにめぐりたい紅葉名所
天台宗の三門跡寺院(青蓮院、妙法院)のひとつで、京都五箇室門跡(青蓮院、妙法院、曼殊院、毘沙門堂)にも数えられる、三千院。
「延暦年間(782-806)に最澄が比叡山東塔南谷の山梨の大木の下に一宇を構えたことに始まる」とされ、平安後期には皇子皇族が住持する格式高い宮門跡に。その後、比叡山から降り何度も移転を繰り返し、現在の大原に移ったのは、明治維新後のこと。最澄自刻と伝わる薬師瑠璃光如来を、ご本尊として祀られています。
「延暦年間(782-806)に最澄が比叡山東塔南谷の山梨の大木の下に一宇を構えたことに始まる」とされ、平安後期には皇子皇族が住持する格式高い宮門跡に。その後、比叡山から降り何度も移転を繰り返し、現在の大原に移ったのは、明治維新後のこと。最澄自刻と伝わる薬師瑠璃光如来を、ご本尊として祀られています。
周辺は、第3世天台座主・慈覚大師円仁が声明の修練道場として開いた来迎院・勝林院をはじめ、天台声明ゆかりのお寺が多くあります。天台宗の歴史を感じながら、大原一帯をめぐるのがおすすめです♪
⇒三千院のスポット情報はこちら
⇒三千院のスポット情報はこちら
【曼殊院】紅葉スポット・一乗寺を代表する名刹
比叡山の西麓にあり、「小さな桂離宮」と称されるお寺。鎮護国家の道場として、最澄が比叡山に一堂を建設したのを始まりとします。その後、移転を繰り返し、明暦2年(1656)、八条宮智仁親王の第2皇子・良尚法親王が入寺、現在地に堂宇が造営されました。
紅葉は、勅使門前の参道のほか、比叡山につながる山肌を借景とする書院前の庭園も見どころ。詫びた風情を感じられます。
⇒曼殊院のスポット情報はこちら
紅葉は、勅使門前の参道のほか、比叡山につながる山肌を借景とする書院前の庭園も見どころ。詫びた風情を感じられます。
⇒曼殊院のスポット情報はこちら
【青蓮院】広大な境内は、紅葉の隠れスポット
最澄が比叡山 延暦寺を開くにあたり、山上に作った僧侶の住坊「青蓮坊」を起源とするお寺。元は比叡山の東塔にあり、最澄や円仁など著名な僧侶の住居でしたが、平安時代末には現在地に移転。皇族、もしくは五摂家の子弟が門主を務める門跡寺院として、高い格式を誇ってきました。
門前、神宮道沿いの大楠が有名ですが、約1万坪の境内には、「相阿弥の庭」「霧島の庭」「大森有斐の庭」3つのお庭が広がり、秋には紅葉名所として親しまれています。
⇒青蓮院のスポット情報はこちら
門前、神宮道沿いの大楠が有名ですが、約1万坪の境内には、「相阿弥の庭」「霧島の庭」「大森有斐の庭」3つのお庭が広がり、秋には紅葉名所として親しまれています。
⇒青蓮院のスポット情報はこちら
★最澄自刻の仏像が伝わる
【毘沙門堂】圧巻のレッドカーペットが楽しめる、勅使坂の散り紅葉
ご本尊の毘沙門天は最澄自作と伝わり、延暦寺・根本中堂のご本尊・薬師如来の余材で刻まれたと伝わります。もとは賀茂川沿い、出雲路に寺地があったと伝わりますが、寛文5年(1665)に現在の山科の地に移転。
秋の紅葉、春の桜の名所として知られ、特に晩秋、勅使門へと続く勅使坂に紅葉が降り積もる景色は圧巻のひとこと。
⇒毘沙門堂のスポット情報はこちら
秋の紅葉、春の桜の名所として知られ、特に晩秋、勅使門へと続く勅使坂に紅葉が降り積もる景色は圧巻のひとこと。
⇒毘沙門堂のスポット情報はこちら
【十輪寺】紅葉の隠れ里、大原野に広がる錦絵巻
西山・大原野にある十輪寺は、嘉祥3年(850)、文徳天皇が皇后の安産祈願のために創建したお寺。本尊の延命地蔵菩薩坐像は、最澄作と伝わります。秘仏のため、1年に一度、8月23日のご開帳日のみ、直接お参りができます。
平安時代の歌人・在原業平晩年の住処とされていて、お寺を代表する桜の名木は「なりひら桜」の通称が。モミジも多く植えられ、周辺の善峯寺や正法寺、勝持寺など、秋になると西山一帯に鮮やかな紅葉の景色が広がります。
⇒十輪寺のスポット情報はこちら
平安時代の歌人・在原業平晩年の住処とされていて、お寺を代表する桜の名木は「なりひら桜」の通称が。モミジも多く植えられ、周辺の善峯寺や正法寺、勝持寺など、秋になると西山一帯に鮮やかな紅葉の景色が広がります。
⇒十輪寺のスポット情報はこちら
※掲載内容は2021年9月8日時点の情報です。最新情報は各掲載先へご確認ください。