京都、茶聖・千利休ゆかりの地めぐり

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大徳寺

大徳寺

歴史ある京都には、さまざまな人物のゆかりの地があります。今回注目したのは、織田信長と豊臣秀吉という名だたる戦国武将に仕えた茶聖・千利休。没後430年となる今年(2021年)、そして来る2022年に生誕500年を迎えるにあたり、京都にある利休ゆかりの地をご紹介します。

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千利休とは?

千利休(幼名・与四郎)は貿易都市として栄えた堺(大阪)の商家に生まれました。鎌倉時代に栄西が禅宗とともに宋から伝えた抹茶は、闘茶という茶の銘柄を当てる遊戯へと発展しましたが村田珠光が茶会での博打、飲酒を禁止。珠光は豪華な書院で高価な唐物を使っていた茶の湯を、粗末な道具を使い四畳半以下の茶室で行い、精神性を重んじる「わび茶(草庵の茶)」の創始とされます。堺の豪商だった武野紹鷗(たけの じょうおう)がわび茶をさらに深化させ、その弟子、利休がわび茶を大成しました。

50代を迎えると織田信長の茶頭(さどう)となり、信長の「茶室外交」をリードした利休。本能寺の変以降は、天下人となった豊臣秀吉の茶頭となりますが、茶頭の立場を越え政治・軍事のアドバイザーとして密接な関係となっていきます。それでは、利休の人生後半の舞台・京都での足跡をたどってみましょう。

一大イベント「北野大茶湯」をプロデュース
【北野天満宮】

学問の神様を祀ることで知られる北野天満宮。天正15年(1587)10月、秀吉の九州平定、そして邸宅・聚楽第(じゅらくだい)完成を祝して、境内では大茶会「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」が開催されました。

大茶湯は「茶湯執心の者は、若党(わかとう)・町人・百姓以下によらず、茶こがしにても苦しからず仕かくべき事」(※)という高札を掲げて行われました。これを采配したのは利休。800余りの茶席が境内を埋め尽くしたといいます。秀吉は拝殿に“黄金の茶室”を持ち込み、境内には着飾った町衆、商人、茶人、武家たち。絵巻物のようにきらびやかな光景だったことでしょう。楼門のそばには、茶会で供する水を汲んだという「太閤井戸」と石碑が今も遺ります。

※「茶湯に執心で、茶道具の何かひとつ、なければ代替のものを持参すれば、身分を問わず参加できる」の意。

本殿(国宝)

本殿(国宝)

利休、最後の屋敷跡
【晴明神社】

晴明井※新型コロナウイルス感染防止のため、水流は停止されています。

晴明井※新型コロナウイルス感染防止のため、水流は停止されています。

陰陽師・安倍晴明を祀る晴明神社。二の鳥居横には、「千利休居土聚楽屋敷 趾」と刻まれた石碑があります。秀吉の京都の邸宅・聚楽第の周囲には大名屋敷が並び、利休も「利休聚楽屋敷」を構え、暮らしていました。ここが、利休最後の屋敷となります。晴明神社の境内にある“☆”を模した「晴明井」は、洛中名水のひとつ。利休もこの水を使い、お茶を点てたといいます。

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茶の湯との関わりが深い禅寺
【大徳寺】

臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺。応仁の乱により荒廃後、一休宗純が再興し、織田信長、豊臣秀吉など戦国武将ゆかりの塔頭が建立されました。茶の湯との関わりが深く、塔頭の多くに茶室が設けられ、「大徳寺の茶面(ちゃづら)」とも呼ばれています。

三門「金毛閣(きんもうかく)」の上層は、天正17年(1589)に利休が増築・寄進したもの。楼上には利休の等身大の木像が安置されました。しかしその後、雪駄をはいたこの像が「雪駄で踏みつける」ことになり、高貴な人もくぐる門の楼上に置くとは「不敬不遜」と秀吉の逆鱗に触れ、利休は自刃に追い込まれました。利休の墓は現在、塔頭の聚光院(非公開)にあります。

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黄梅院の「直中庭(じきちゅうてい)」。

黄梅院の「直中庭(じきちゅうてい)」。

“平成待庵”と呼ばれる、瑞峯院の茶室(非公開)。

“平成待庵”と呼ばれる、瑞峯院の茶室(非公開)。

利休木像事件のほか、塔頭にもゆかりの地が多く遺る大徳寺。黄梅院の「直中庭」は千利休作庭と伝わり、利休の師である武野紹鴎好みの茶室「昨夢軒」があります。瑞峯院には、利休が建てたと伝わる妙喜庵の茶室「待庵(たいあん)」を写した“平成待庵”と呼ばれる茶室(非公開)、高桐院には、利休の邸宅を移したという書院や、利休からゆずりうけた石灯籠があるなど、大徳寺は利休を知るうえで訪れておきたいお寺です。

※高桐院は、当面の間、拝観休止となっています。

春には河津桜が咲き誇る、利休ゆかりの橋
【一条戻橋】

早咲きの河津桜の名所としても有名です。

早咲きの河津桜の名所としても有名です。

天正19年(1591)、秀吉に「不敬不遜」とされた利休の木像は、聚楽屋敷から150メートルほど南の一条戻橋に磔(はりつけ)にされます。利休は秀吉に堺蟄居(ちっきょ)を命ぜられてから10日後、京に呼び戻され聚楽第屋敷で自害。切腹を前にして利休は、尼子三郎左衛門など三検使に茶をふるまったといいます。利休の首は一条戻橋で磔にされている木像に踏まれる格好でさらされました。

■一条戻橋
【アクセス】市バス「一条戻橋・晴明神社前」バス停から徒歩約2分 Google map

利休との出会いにより誕生した“樂茶碗”
【樂美術館】

一条戻橋近くにある樂美術館も、利休にゆかりあるスポットです。秀吉の聚楽第造営にあたり、瓦を焼く多くの職人たちが集められましたが、その中の一人、長次郎は飾り瓦を焼く優れた職人でした。利休は長次郎に「瓦ではなく茶碗を焼いてみないか」と持ちかけます。轆轤(ろくろ)を使わない手捏ね(てづくね)の茶碗。長次郎の職人魂に火がつきます。利休との度々の応酬の末、茶碗が完成。“樂茶碗”の誕生に至ります。

樂茶碗

樂茶碗

樂焼の窯元・樂家に隣接する樂美術館では年4回の特別展があり、現在は特別展「玉水焼 三代」が行われています(~8月22日まで)。また、月に一度「手にふれる樂茶碗鑑賞会」(要予約)を開催。利休と長治郎の出会いをルーツとする作品を、ただ観るだけでなく、実際に触れる貴重な体験ができます。

⇒樂美術館のスポット情報はこちら
※本記事は2013年掲載の「茶聖・利休と激動の京都」を一部改訂しました。掲載内容は2021年7月13日時点の情報です。最新情報は各掲載先へご確認ください。

Written by. かりー

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