京都のお寺めぐりで「○○門跡」という寺院を訪れたことはありますか。歴史ある古都には数多くの寺院がありますが、御室桜で知られる仁和寺や山深き大原の里に佇む三千院、青もみじが美しい東山の青蓮院などは、全て「門跡寺院」と呼ばれています。門跡寺院とはいったいどのようなお寺のことなのでしょうか。その歴史や特徴を知れば、京都のお寺めぐりもより深いものになるはず。今回は、京都にある「門跡寺院」の魅力をご紹介します。
そもそも「門跡寺院」ってどんなお寺?
仁和寺インタビュー
境内に残る「門跡寺院の証」を探そう!
境内をくまなく散策して門跡寺院ならではの特徴を見つけてみましょう。
京の宮門跡をめぐる
旧嵯峨御所 大本山大覚寺
嵯峨天皇が建立した「離宮嵯峨院」が起源の門跡寺院。貞観18年(876)に皇女・正子内親王によって寺院になりました。鎌倉末期には後宇多法皇らがこの地で院政を行ったことから「嵯峨御所」とも呼ばれています。
聖護院
寛治4年(1090)に増誉大僧正が白河上皇の熊野御幸の先達を務め、「聖体護持」から2字を取った聖護院を賜り、その後に後白河天皇の皇子が入寺し門跡寺院となります。天明の世に御所焼尽の折、光格天皇が御住まいになり日本で唯一の史跡仮皇居となりました。
青蓮院門跡
平安末期、鳥羽上皇が第7皇子を行玄の弟子として入寺させたことを機に殿舎を院御所に準じて整備。以来、皇族や摂関家から門主を迎えるようになりました。境内には龍心池が美しい庭園が広がり、多くの人が訪れます。
仁和寺
日本初の門跡寺院となったことから門跡寺院の筆頭に挙げられている仁和寺。金堂は御所内裏の紫宸殿を寛永年間(1624~1643)に移築したもので、現存する最古の紫宸殿の遺構として国宝に指定されています。
知恩院
法然が吉水に設けた草庵に始まる浄土宗の総本山。徳川将軍家の庇護を受け寺領を拡大。慶長12年(1607)に後陽成天皇の第8皇子が初代宮門跡に定められて以来、皇室出身者が宮門跡を務めました。
三千院
延暦年間(782~806)に最澄が比叡山東塔南谷に構えた堂宇が始まり。大治5年(1130)に堀河天皇の第2皇子・最雲法親王が皇族として初めて入寺し、代々皇室や摂関家の子弟が住持を務めました。
曼殊院
平安時代に始まる天台宗の寺院。室町中期に慈運法親王が門主として入寺してからは代々皇族が門主を務める門跡寺院に。現在の堂宇は桂離宮との共通点が多いことから「小さな桂離宮」ともいわれています。
勧修寺
昌泰3年(900)、醍醐天皇が母・藤原胤子の菩提を弔うために創建。天慶5年(942)に宇多天皇の第8皇子が入寺してからは皇室からの入寺が相次ぎ、後伏見天皇の皇子・寛胤法親王の代から門跡寺院と伝えられています。
毘沙門堂
大宝3年(703)に文武天皇の勅願によって創建された古刹。江戸時代、後西天皇の皇子・公弁法親王が晩年隠棲した際に御所から勅使門や霊殿、宸殿を移築。以降は門跡寺院としても厚い尊崇を集めています。
妙法院
青蓮院・三千院と並ぶ天台三門跡のひとつで、蓮華王院(三十三間堂)の本坊。院政を行った後白河法皇との縁が深く、高倉天皇の皇子・尊性法親王が住持になって以降、門跡寺院として高い格式を誇っています。
照高院(廃寺)
豊臣秀吉の命によって妙法院の地に建てられましたが、豊臣家の滅亡とともに廃絶。その後、後陽成天皇の弟・興意法親王が幕府に陳情し伏見城の建物を譲り受け再建。以来聖護院門主の退隠所となりました。
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※掲載内容は2022年11月18日時点の情報です。最新情報は各掲載先へご確認ください。