京都 門跡寺院をめぐる

京都のお寺めぐりで「○○門跡」という寺院を訪れたことはありますか。歴史ある古都には数多くの寺院がありますが、御室桜で知られる仁和寺や山深き大原の里に佇む三千院、青もみじが美しい東山の青蓮院などは、全て「門跡寺院」と呼ばれています。門跡寺院とはいったいどのようなお寺のことなのでしょうか。その歴史や特徴を知れば、京都のお寺めぐりもより深いものになるはず。今回は、京都にある「門跡寺院」の魅力をご紹介します。


そもそも「門跡寺院」ってどんなお寺?

「門跡寺院」とは皇族や公家が住職を務めたお寺のことです。元々「門跡」という言葉は、日本の仏教における正式な後継者のことを指していましたが、鎌倉時代以降は格式の高い寺院そのものを表す言葉になりました。日本で初めて門跡寺院と呼ばれるようになったのは、京都市右京区の仁和寺です。平安時代の昌泰2年(899)に宇多天皇が譲位の後、出家して仁和寺の住職になったことが始まりです。室町時代には門跡寺院の政務を司る門跡奉行が置かれたほどその数が増えたそうです。明治4年(1871)に門跡制度は廃止されましたが、現在も皇室との縁の深さを示す証が境内の至るところで見つけられます。


仁和寺インタビュー


どうして仁和寺が門跡寺院になったの?

どうして仁和寺が門跡寺院になったの?


平安時代に宇多天皇が譲位後入寺して以来、門跡寺院として高い格式を誇るのが、御室に広大な境内を有する世界文化遺産の仁和寺です。初代門跡の宇多法皇から30代までに至る約1000年もの間、天皇家や皇族出身者が門跡を務めました。なぜ仁和寺が門跡寺院となったのでしょうか。その創建の歴史や門跡寺院となった理由、境内に今も残る門跡寺院ならではの特徴について、財務部拝観課で書記を務める鳥越乗聖さんにお話を伺いました。


仁和寺は、仁和2年(886)に第58代光孝天皇の発願によって着工しましたが、光孝天皇はその完成を見ることなく翌仁和3年(887)にご病気で崩御されました。皇子であった宇多天皇が先帝のご遺志を継ぎ、寺院が完成したのが仁和4年(888)のことです。寺号も元号から取って仁和寺となりました。ちなみに、この元号を取ったお寺のことを「元号寺」といいます。後に宇多天皇は出家され、昌泰2年(899)に寛平法皇(かんぴょうほうおう)として仁和寺第1世の門跡となりました。数ある門跡寺院のなかでも天皇御自らが出家され、初代門跡となられたのは仁和寺のみです。

仁和寺では、門跡寺院を表す大きな特徴として伽藍の南西にある「御室」が挙げられます。今は御室というと仁和寺周辺に広がる地域の地名になっていますが、元々「室」というのはお坊さんが住む所のことを表し、天皇家や高貴な方に付ける「御」が合わさって「門跡が住むところ」を意味する言葉になりました。寛平法皇は延喜4年(904)に御室を造営してそこに移られますが、後に御室には勅使門や大きな儀式事を行うための宸殿(しんでん)、御殿が建ち、天皇の行幸をもてなすための庭園や書院などが整備され「仁和寺(御室)御所」と呼ばれるようになりました。

仁和寺は、慶應3年(1867)に第30世の純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が住職となる歴史を終えました。そのため、現在では門跡寺院として大きな儀式を行うことはありませんが、宮内庁と合同で年に1度、光孝天皇陵と宇多天皇陵を参拝しています。また仁和寺の近くには、宇多天皇の母である班子皇后(はんしこうごう)をご祭神に祀る福王子神社があります。こちらの秋季大祭では、仁和寺から譲り受けた菊の御紋入りの神輿が巡行し、仁和寺入山の際には特別に勅使門が開かれ宸殿前で儀式が執り行われています。

門跡寺院のなかでも、出家した皇族を表す法親王などが住職になっている寺院のことを宮門跡(みやもんぜき)と呼びます。江戸時代、幕府は門跡寺院の制度化を行いますが、宮門跡は一番格式の高い門跡寺院としてランクされました。宮門跡は全国に13ヶ所あり、輪王寺(栃木県日光市)と圓満院(滋賀県大津市)を除く11ヶ所は全て京都にあります。実際に親王家に限って入寺したのは仁和寺・大覚寺・輪王寺の3門跡で、その他の寺院は摂関家からも入寺していました。


境内に残る「門跡寺院の証」を探そう!

境内をくまなく散策して門跡寺院ならではの特徴を見つけてみましょう。

御所の紫宸殿を思わせる雅やかな宸殿

門跡寺院を象徴する建築物のひとつに挙げられる「宸殿」。「宸(しん)」とは天皇が住まいとした所のことで、なかには大覚寺の宸殿のように御所から下賜されたものもあります。仁和寺の宸殿は慶長度の常御殿を下賜されたものでしたが、明治20年(1887)に火災で焼失、大正時代に再建されました。寝殿造の外観と書院造の内観を見事に組み合わせた格式高い門跡寺院ならではの優美な意匠が特徴的です。

天皇も愛でた美しい庭園にも注目

天皇などの来客をもてなすために整備された庭園があるのも門跡寺院ならではの特徴。なかでも国指定名勝の仁和寺御所庭園は、南庭と北庭で全く異なる趣を見せます。広大な白砂の景色が広がる南庭には、御所と同じように左近の桜と右近の橘を植栽。江戸時代に造営された池泉式の北庭は五重塔と光格天皇遺愛の茶室「飛濤亭(ひとうてい)」が庭園と見事に重なり、境内でも指折りのフォトスポットになっています。

境内の至るところで見られる菊の御紋

門跡寺院の境内を歩いていると、所々に皇族との縁を表す菊の御紋を見かけます。菊の御紋を初めて使用したのは鎌倉時代の後鳥羽上皇。承久の乱で兵士を鼓舞するために御自ら刀を打ち菊の御紋を刻んだといわれています。仁和寺では、幕のデザインや金堂(国宝)に用いられている木材の飾り金具などで菊の御紋が使用されている他、御朱印帳の表紙にも菊の御紋が印されています。

土塀に引かれた五本線も門跡寺院の証

門跡寺院の土塀には、5本の白い水平線が引かれています。これは寺院の格式の高さを表す「筋塀(すじべい)」と呼ばれるもので、定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる白い水平線が、寺院の格式に合わせて5本・4本・3本と描かれています。天皇や皇族が入寺した門跡寺院は日本で最高の格式を誇る寺院のため、5本線が描かれているのです。


京の宮門跡をめぐる

旧嵯峨御所 大本山大覚寺

嵯峨天皇が建立した「離宮嵯峨院」が起源の門跡寺院。貞観18年(876)に皇女・正子内親王によって寺院になりました。鎌倉末期には後宇多法皇らがこの地で院政を行ったことから「嵯峨御所」とも呼ばれています。

スポット情報

聖護院

寛治4年(1090)に増誉大僧正が白河上皇の熊野御幸の先達を務め、「聖体護持」から2字を取った聖護院を賜り、その後に後白河天皇の皇子が入寺し門跡寺院となります。天明の世に御所焼尽の折、光格天皇が御住まいになり日本で唯一の史跡仮皇居となりました。

スポット情報

青蓮院門跡

平安末期、鳥羽上皇が第7皇子を行玄の弟子として入寺させたことを機に殿舎を院御所に準じて整備。以来、皇族や摂関家から門主を迎えるようになりました。境内には龍心池が美しい庭園が広がり、多くの人が訪れます。

スポット情報

仁和寺

日本初の門跡寺院となったことから門跡寺院の筆頭に挙げられている仁和寺。金堂は御所内裏の紫宸殿を寛永年間(1624~1643)に移築したもので、現存する最古の紫宸殿の遺構として国宝に指定されています。

スポット情報

知恩院

法然が吉水に設けた草庵に始まる浄土宗の総本山。徳川将軍家の庇護を受け寺領を拡大。慶長12年(1607)に後陽成天皇の第8皇子が初代宮門跡に定められて以来、皇室出身者が宮門跡を務めました。

スポット情報

三千院

延暦年間(782~806)に最澄が比叡山東塔南谷に構えた堂宇が始まり。大治5年(1130)に堀河天皇の第2皇子・最雲法親王が皇族として初めて入寺し、代々皇室や摂関家の子弟が住持を務めました。

スポット情報

曼殊院

平安時代に始まる天台宗の寺院。室町中期に慈運法親王が門主として入寺してからは代々皇族が門主を務める門跡寺院に。現在の堂宇は桂離宮との共通点が多いことから「小さな桂離宮」ともいわれています。

スポット情報

勧修寺

昌泰3年(900)、醍醐天皇が母・藤原胤子の菩提を弔うために創建。天慶5年(942)に宇多天皇の第8皇子が入寺してからは皇室からの入寺が相次ぎ、後伏見天皇の皇子・寛胤法親王の代から門跡寺院と伝えられています。

スポット情報

毘沙門堂

大宝3年(703)に文武天皇の勅願によって創建された古刹。江戸時代、後西天皇の皇子・公弁法親王が晩年隠棲した際に御所から勅使門や霊殿、宸殿を移築。以降は門跡寺院としても厚い尊崇を集めています。

スポット情報

妙法院

青蓮院・三千院と並ぶ天台三門跡のひとつで、蓮華王院(三十三間堂)の本坊。院政を行った後白河法皇との縁が深く、高倉天皇の皇子・尊性法親王が住持になって以降、門跡寺院として高い格式を誇っています。

照高院(廃寺)

豊臣秀吉の命によって妙法院の地に建てられましたが、豊臣家の滅亡とともに廃絶。その後、後陽成天皇の弟・興意法親王が幕府に陳情し伏見城の建物を譲り受け再建。以来聖護院門主の退隠所となりました。



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※写真はイメージです。
※掲載内容は2022年11月18日時点の情報です。最新情報は各掲載先へご確認ください。