2023年大河ドラマ「どうする家康」。
戦国に生まれ落ちたときから修羅に生きる宿命にあった徳川家康は、
苦悩し、絶望し、我慢し、やがて泰平の世へと歩みを進めていきます。
そんな彼の人生のターニングポイントは、いつも京都にありました。
多くの武将たちが目標にした〈花の都〉に、家康はどのように関わったのでしょう。
京都の史跡をご紹介するとともに、歴史の
「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」
この言葉は『東照宮御遺訓』にあり、徳川家康が遺したものと言われています。家康本人の言葉という確証はないのですが、まさに家康の人生そのもの。家康は天下をとって約260年も続く泰平の世を導きますが、それを成し遂げたのはほぼ晩年のことです。三河の小さな大名「松平家」に生まれた家康は、今川氏の人質として少年時代を過ごし、その後は織田信長、豊臣秀吉に従う「雌伏」の時間が圧倒的に長かったのです。まさに「遠き道」でした。
家康と京都のつながりが見え始めるのは「信長時代」です。桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討つと、家康は次第に信長に従う大名となり、いくつもの「信長の戦」に駆り出されました。信長が足利義昭を奉じて入京してからは、家康も信長に従って上洛することもありました。
そして本能寺の変です。
これは信長が家臣の明智光秀に討伐された歴史的事件ですが、本能寺にはいなかった家康も、実はおおいに巻き込まれていました。
事件が起こる半月ほど前、甲斐の武田氏を滅亡させた信長は、勲功のあった家康を安土城に招いて歓待しました。その家康の接待役が光秀でした。ところがその途中で信長は光秀に、備中高松城を攻めている羽柴(豊臣)秀吉の援軍に行くようにと命じます。光秀は軍勢を整えて西国に向かいますが、このとき光秀はすでに極めて重い決断をしていました。
家康を歓待する信長は、ついでに京都、堺も遊覧するように勧めていました。家康はそのとおり都を楽しみ、堺では有名茶人たちとの茶会に明け暮れます。
一方、光秀はすぐに備中には向かわず、居城の一つである亀山城にしばし留まり、愛宕山に登っていました。山頂に鎮座する愛宕神社はこのころ戦勝を導く神として武将たちの崇敬を受けており、光秀はここで2度、3度とおみくじを引いています。そして境内で行われた連歌会では、次の句を詠みました。
ときは今 あめが下知る 五月かな
この句の解釈には諸説ありますが、「あめが下知る」は「天下をとる」という意味があると言われています。新緑からしたたる愛宕山の雨の静けさとは対象的に、光秀の心は熱く煮えたぎっていたと想像できます。
その後、光秀の軍勢は西へ向かわず、都にとって返しました。目指したのは、主君・信長の滞在する本能寺。
光秀謀叛の理由は古来さまざまに推測されていますが、信長の超合理主義による突然の政策転換や領地分配で、光秀のような古くからの家臣は遠国に追いやられようとしていたようです。
安土城から入京していた信長の護衛はとても手薄でした。有力武将たちが信長の命令で四国討伐に出立する日だったからです。当然、それを光秀は知っていました。そして6月2日未明、本能寺炎上。
当時の本能寺は現在地とは異なり、四条坊門西洞院というところにあって約120メートル四方の敷地を持つ城砦のような寺院でした。広い境内ではあるものの、このときの本能寺には信長と少数の供回りと女性、僧侶しかおらず、光秀の軍勢にはまったく太刀打ちできませんでした。信長の遺骸は裏手の薮の中で、阿弥陀寺の僧・清玉によって火葬されたとも伝わります。
本能寺は10年後に再建されましたが、秀吉の命によって現在地に移転しました。場所は異なれど、現在の本能寺には信長の三男・信孝が築いた「信長公廟」や供養塔も伝えられ、あまりにも有名な大事件を雄弁に伝えています。
信長が討たれた──
その知らせは家康のもとにも届けられます。堺を出て、信長のいる京都に向かうところでした。このときの家康は信長に従う武将だったので、彼もまた光秀の敵。すぐさま自国の三河に戻ろうとしますが、このような事件の後はかならず落ち武者狩りが現れ、非常に治安が悪くなるのです。家康は絶望し、松平家にゆかりのある知恩院で自害しようと思いますが、家臣たちに逃げて生きるよう説得されます。ここから三河岡崎城への三日間の逃避行が始まります。「家康の伊賀越え」です。
ルートは諸説ありますが、堺から京田辺市、宇治田原町を通る「田原道」ルートもその一つです。家康が通ったという伝承があちこちに残るのは、土地の人々がそのことを誇りに思うためでしょう。
京田辺市では甘南備山のあたりを通って草内の渡し場から木津川を渡ったとされ、宇治田原町では山口城で軽い昼食をとり、伊賀への峠越えを前に遍照院で休憩をとったと伝わります。遍照院には家康が腰をかけたという石や、そのときに見上げた梅の古木も今に残されています。
山道、また山道。家康一行は伊賀から甲賀へと抜け、伊勢湾を舟で渡り、居城である岡崎城に無事にたどり着きました。これが家康にとっての本能寺事件なのです。
三河に着いた家康は、すぐに信長の弔い合戦に挑もうとしますが、秀吉が備中から驚異的なスピードで引き返し、山崎の合戦で明智光秀を討ち果たしました。光秀方に付く武将が予想以上に少なかったのです。行軍の途中でその報を聞いた家康は、兵を引き返すしかありませんでした。
山崎の合戦は天王山のふもとを流れる円明寺川(現在の小泉川)を挟んで繰り広げられました。このときの秀吉の本陣は天王山の中腹にある宝積寺に置かれています。雨が降っていましたが、ここから戦況がしっかりと見渡せたことでしょう。合戦の後、秀吉は天王山に宝積寺を取り込んだ山崎城を築いて、大坂城築城までここを居城としました。境内の美しい三重塔は秀吉が一日で建立したものと伝えられます。
山崎から敗走した明智光秀は、娘のガラシャが嫁いでいた細川氏の勝龍寺城に入り、そこから居城の坂本城を目指します。しかしその途次で落ち武者狩りに遭い、落命しました。
ここから秀吉は天下取りに邁進します。同じ信長方武将として家康は秀吉と敵対しますが、家康の自国領内は戦乱による疲弊、飢饉などがあって秀吉には対抗できず、豊臣政権下で臣従することになります。家康、我慢の時代に入ります。
*第2回は7月に公開予定です。
WEB連載「家康の京都」との連携企画で、歴史の現場を巡る現地イベントを全3回にわたって開催します。
第1回はなんと言っても本能寺!
戦国の覇者・織田信長を家臣の明智光秀が討つ、という日本史上もっとも有名な事件の一つ「本能寺の変」について学び、散策します。
本能寺での座学は奈良大学教授の河内将芳(かわうち
まさよし)先生による「本能寺で〈本能寺の変〉を知る」。座学の後は僧侶のご案内で境内や大寳殿宝物館などを巡り、本能寺に伝わる鎌倉時代の日本刀の特別見学会も行います。開催日は本能寺の変の翌日、家康が伊賀越えを始めた6月3日。たっぷりと本能寺に浸りませんか。
山崎の合戦で光秀を討ったことで、秀吉は信長家臣団の中から抜きん出ていきます。
「ほしいままの振舞」と言われた秀吉のワンマンぶりに家康は不満を隠せません。自分は今は織田方の大名とはいえ、信長とは本来盟友であったのに対し、秀吉は単なる家来だったではないか、と。
ついに家康と秀吉は小牧・長久手の戦いでぶつかりますが決着がつきません。なしくずし的に秀吉の権力は増大していきます。信長が都とは距離を置いたのに対し、秀吉は関白という高い官位を得て、都に聚楽第という居城を築きます。そして家康に臣下として上洛するように要求するのです。
これに逆らえばまた戦になり、民が苦しむ……そう考えた家康は大坂城の秀吉に「拝謁」し、豊臣政権のもとにくだりました。
天下人となった秀吉は、それらしい派手なイベントを好みました。時には茶会、時には演能の会、と家康は付き合い、はるばる奈良の吉野の花見にも従っています。
秀吉最晩年に企画された一世一代のイベントが「醍醐の花見」。その1年前に家康は秀吉に従い、京都の醍醐寺を訪れています。花見のために約700本も桜の木が植えられ、上醍醐へ向かう山中にまで及んだと言われます。家康も息を切らせて登ったかもしれません。
ふもとの下醍醐にある三宝院の庭は、醍醐の花見を契機に秀吉みずから設計したと言われます。なかでも庭のほぼ中央にある「藤戸石」はもともと信長が細川氏の邸宅から二条御所に移した名石で、信長の死後は秀吉のものとなり、聚楽第から醍醐寺に運ばれたそうです。
家康は慶長3年(1598)の「醍醐の花見」本番に招かれることはありませんでした。秀吉が招いたのは約1,300人もの女性たち。呼ばれた武将は前田利家だけと思われ、しかも山上山下を埋め尽くしたのは桜だけでなく、警備の兵でした。朝鮮出兵など強引な施策を行っていた秀吉は、いつしか疑心に満ちた独裁者になっていたのでしょう。
醍醐の花見からわずか5カ月後、秀吉は隠居地として築いていた伏見城にて死の床につきます。
気がかりなのは跡継ぎ。淀君とのあいだに生まれた秀頼はまだ5歳だったため、秀吉は家康ら「五大老」と、石田三成ら「五奉行」が万事において合議し、秀頼を補佐することを望みました。家康たちは血判を捺して誓います。遺言にも「くれぐれも秀頼を」と記すのは、どれほど念を押しても不安をぬぐいきれなかったのでしょう。慶長3年(1598)8月18日、秀吉は息を引き取ります。
秀吉の遺骸は東山の阿弥陀ヶ峰に埋葬され、豊国大明神という神さまとして豊国廟・豊国社に祀られました。これらはのちに豊臣家が滅ぼされると荒廃しますが、明治期に再建された際、地中にあった壺内からミイラ化した秀吉が西方極楽浄土に向かって座している姿で見つかっています。
同じころ豊国神社も秀吉が築いた方広寺大仏殿の境内に再建されました。現在の国宝の唐門は南禅寺金地院から移築されたものですが、伏見城(家康再建)の遺構と伝わり、豪壮な桃山の美を今に誇ります。
豊国神社から少し北に上がったところに、秀吉の正妻、北政所ねねが創建した高台寺があります。ねねは秀吉の死後、その菩提を弔うために大坂城から京都に移り、のちに家康より莫大な援助を得て高台寺を建立しました。優雅な高台寺蒔絵で装飾される霊屋(おたまや)はねねの遺骸が葬られたところで、秀吉の眠る豊国廟に面して建っています。秀吉の波乱の人生に寄り添ったねねですが、やがておとずれる豊臣家の滅亡もここで知ることになります。
秀吉は家康をかなり優遇していたようです。戦では勝てずに関白という地位を利用して従属させたため、後ろめたさもあったのかもしれません。小田原攻めの勲功で関東を与えられた家康は豊臣家臣団の中で最大の領地を持ち、官位も秀吉に次ぐ正二位内大臣に任じられます。秀吉亡きあと、家康の力が強まるのは当然の流れでした。
当初は前田利家が大坂城の秀頼を補佐し、家康は伏見城で政務を執るという形で、五大老・五奉行制も維持されていました。しかし前田利家が亡くなるとパワーバランスが崩れます。家康は自邸ではなく伏見城の西の丸に移って政務を執り、世間は家康をポスト秀吉ととらえていきます。秀吉のときもそうであったように、当然不満分子が生まれ、家康が真の天下人になるためには次なる大いくさを乗り越えなければなりませんでした。
伏見城といえば「豊臣の城」というイメージがありますが、実は家康の居城期間の方が長いのです。いわゆる「江戸幕府を開いた」とされる慶長8年(1603)の征夷大将軍の宣旨も伏見城で受けており、2年の将軍在任中のほとんどを伏見で過ごしているので、「伏見幕府」と称する研究者もいるほどです。
伏見城は何度も再建されていますが、最後の伏見城は元和5年(1619)に役割を終えて廃城が決まりました。
現在は昭和の再建の模擬天守が立ち、かつて天守のあった本丸跡には明治天皇陵が築かれています。近くの御香宮神社は秀吉が伏見城内に移していましたが、家康が天下を取ったのちに元の場所に戻し、現在の本殿を建立しました。社殿の三つ葉葵の御紋は「徳川の伏見」になっていたことを今なお誇らしげに語るのです。
*第3回は10月に公開予定です。
「そうだ 京都、行こう。」ホームページ特設サイト「家康の京都」との連携企画です。
今回の舞台は、秀吉と家康が拠点にした京都伏見。
御香宮神社では家康造営の本殿で正式参拝した後、社名の由来となった名水「御香水」で煎れた冷たい緑茶を味わいます。また、伏見で家康の孫娘「千姫」が生まれた際に寄進された「千姫神輿」を特別に拝観します。
伏見城の天守は存在しませんが、本丸の跡地などは明治天皇陵となっており、石垣の残石や堀など往時の面影がちらほら。伏見の歴史に詳しい若林正博さん(京都学・歴彩館)の解説をガイディングレシーバーで聴きながら、秀吉と家康の痕跡を散策します。
戦国から泰平の世へと転換する歴史の舞台を体感しませんか。
秀吉亡きあと、家康は五大老の中で一人勝ちをしていきます。
とはいえ、まだ幼少ながら秀吉の後継者である秀頼がいて、多くの豊臣家臣団もいます。家康が天下をとるには「確固たる理由」が必要でした。それはやはり、戦に勝つことです。
反家康の動きを見せていた五大老の一人・上杉景勝を討つために家康が伏見を出て江戸城に入ると、がちゃり、がちゃりと武将たちは立ち上がります。
急先鋒は、五奉行の一人・石田三成。
家康の留守を狙って、三成方についた小早川秀秋、島津義弘らが伏見城を猛攻します。
これは想定内でした。だから家康は、伏見城の留守役となる家臣・鳥居元忠にまるで今生の別れのような挨拶をします。元忠ももとより覚悟の上で、
「殿はこれから天下を取るために多くの兵が必要となります。ここに兵を残せば、無駄になりましょう…」
三成方による昼夜を問わない10日を超える熾烈な攻撃が続きました。ついに伏見城は落ち、元忠は壮絶な死をとげます。すぐに関ヶ原の主戦が始まったため、伏見城の物言わぬ武者たちは放置され、あまりの凄惨な現場に往時の人々は血の染みこんだ板や畳を寺院に運び込んで供養したといいます。この「血天井」を伝えるのが大原・宝泉院の客殿や、宇治の興聖寺、または養源院、正伝寺など。
伏見城の戦いは関ヶ原前哨戦となりました。つまり京都にも「関ヶ原」があった──残されたいくつもの血天井の伝承が、そのことを今に伝えます。
皮肉なことに、非情なまでに伏見城を攻撃した小早川秀秋が寝返ったことで、天下分け目の関ヶ原の戦いは一日でほぼ決着がつき、家康が勝利を手にしました。
この戦で家康は西軍の大名から膨大な領地を没収し、戦功のあった大名たちに分け与えました。すべて家康の独断で行われことで、彼が実質的な「天下人」になったのです。
1603年2月12日、家康は再建された伏見城に勅使を迎え、征夷大将軍に任じられました。名実ともに天下人になった家康は、任命の御礼に朝廷に向かうとき、完成したばかりの二条城から牛車で出立しました。二条城は西国の大名に造営を負担させた、いわゆる天下普請です。御所を守護する役割のほか、家康が入洛した際はここを本拠としました。美術史でいえば桃山文化にあたる時期の建築であり、権威を演出する豪壮で華々しい御殿と障壁画をいまに伝えることになりました。
同じころ、家康は浄土宗総本山の知恩院も整備させています。もともと松平家と知恩院はゆかりがあり、家康が本能寺の変の報を受け、身の危険を感じたときも、
「知恩院で自害しようかな」
と弱音を吐いたほど、心のよりどころになっていました。将軍任命の前年に母の於大の方が亡くなったため、知恩院を永代菩提寺と定め、莫大な寄進を行ったのです。天下人になったばかり、家康はその威信を都びとに示すため、知恩院は壮麗な伽藍となりました。
権力をすべて手に入れても、家康には怖いものがありました。秀吉の遺児・秀頼です。
将軍に任命された後は秀頼に臣下の礼をとることはありませんでしたが、幼くても、「豊臣」というカリスマ性はまだ熱を帯びていたのです。
1611年3月、二条城で二人は会見しました。数えで19歳、礼儀正しい青年へと成長していた秀頼を見て、家康の不安は実体をもって迫ったのかもしれません。
3年後、家康は秀頼を攻める口実を得ます。秀吉が建立した方広寺大仏殿を秀頼が再興した際に、その梵鐘に刻まれた銘文がそれです。
国家安康、君臣豊楽──家と康を分断させ、豊臣が君主として楽しむ──
家康はこれを見て、本当に怒ったか、にやりと笑ったか。この梵鐘はまだ現在の方広寺に残され、問題の銘文もしっかりと読むことができます。
家康はみずから二条城を出陣し、秀頼の大坂城に向かいました。この冬の陣では和睦交渉が成立しましたが、その後大坂に不穏な動きがあるという報を受け、夏の陣が始まります。
今度はあっけなく本丸まで占拠され、秀頼助命の交渉も虚しく、23歳の命は散りました。
大坂城炎上のために赤く染まった空は、都の高台寺に住む秀吉の妻・高台院(ねね)の目にも映ったといいます。豊臣終焉を告げる赤い空を見つめ、手を合わせるばかりだったことでしょう。
この戦には2代将軍の秀忠も同行していますが、交渉・軍事指揮権は74歳の家康が握っていました。自分の手で豊臣を滅ぼして初めて、「家康の戦国」は清算されたのかもしれません。
その年のうちにいくつもの法度を発して、家康は争いの芽を摘んでいきます。
武器を下ろそう、法をかかげよう──
翌年、家康は75歳の生涯を閉じました。
「そうだ 京都、行こう。」ホームページ特設サイト「家康の京都」との連携企画です。
家康の母・於大の君の菩提寺とされた知恩院。歴代の徳川将軍家によって支えられた壮大な伽藍を、お坊さまのご案内で巡ります。通常非公開の徳川家康坐像・徳川秀忠坐像(いずれも重要文化財)や、徳川家の接待に使用された大方丈・小方丈などを特別に公開していただきます。
そして開催日にあたる12月27日ならではの行事「除夜の鐘 試し撞き」を見学します!大晦日の知恩院の除夜の鐘は京の風物詩となっていますが、27日は本番さながらに多くの僧侶たちが心を合わせ、親綱・子綱を持って撞き鳴らします。その様子は圧巻!
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